日常という天秤の上
太平洋の海水を蒸発させた極大の白霧が完全に晴れ渡ったとき、荒涼とした海岸線は、割れんばかりの歓声と怒号のような雄叫びに包まれた。
「……オーマイゴッド。本当に、たった一人でこの絶望を終わらせやがった」
「見ろ! 海の色が……瘴気が完全に消えているぞ!」
『リバティ・プライム』の重装甲部隊や、後方で支援に回っていた自衛隊員たちが、次々と武器を放り出して抱き合い、あるいは砂浜に膝を突いて涙を流していた。
世界を終わらせる可能性すらあった深海の脅威は、一人の男によって、文字通り「消し飛んだ」のだ。
俺は、歓喜の渦の中心で群がる探索者たちの波を掻き分けながら、静かに息を吐いた。
「英雄の凱旋ね、湊」
海岸線の高台に降り立つと、そこには車椅子に乗った雪乃と、彼女に寄り添う結衣、そして妖艶な笑みを浮かべるチャオの姿があった。その後方には、腕を組んで不満げに鼻を鳴らす獅子神と、豪快に笑う東の姿もある。
「……英雄なんてガラじゃないよ」
俺は、歓喜に沸く海ではなく、その遥か頭上――どんよりと淀んだ灰色の空を見上げた。
脳裏に焼き付いて離れない、崩壊の最中に垣間見たあの漆黒の亀裂。絶望そのものを凝縮したような巨大な『眼』。
あの九尾を単なる駒として扱う底知れぬ存在。奴が最後に残した言葉が、俺の心臓の奥底で、冷たい警鐘を鳴らし続けていた。
『本当の地獄の底で、貴様が絶望に染まる日を楽しみにしているぞ』
戦いは、終わっていない。
むしろ、人類がようやく「本番」の舞台に上がる資格を得たに過ぎないのだ。
* * *
数日後。
東京都、西東京市の自宅
日本の最高戦力として世界中から注目を浴び、防衛省や各国のトップギルドから連日のように面会の要請が殺到する中、俺はそれらをすべて神代に押し付け、自宅へと帰還していた。
静かな朝の陽光が差し込むキッチン。
俺はデジタルスケールの上に小皿を乗せ、炊飯器からよそった白米の量をミリ単位で微調整していた。
「……よし。ぴったり200グラム」
続いて、蒸し器から取り出したサツマイモを切り分け、別の皿に乗せる。
こちらの数値は、正確に450グラム。
どれだけ世界が狂い、俺自身の筋力が数十万という神の領域に足を踏み入れようとも、俺はこの徹底した食事管理と、己の肉体を限界までいじめ抜く物理的なトレーニングのルーティンだけは絶対に崩さなかった。
今の俺にとって、ダンベルを持ち上げたり、グラム数を量って食事をすることに、物理的な強さの底上げとしての意味は全くない。
だが、これは俺にとって、人間としての「輪郭」を保つための絶対的な儀式なのだ。
あの九尾を文字通り蒸発させた時。
俺は確かに、自分の内側にある「人間性」が、圧倒的な暴力の快感に塗り潰されそうになるのを感じた。
強すぎる力は、器である精神を容易く歪める。
だからこそ、自宅の狭いアパートで、自らの手で飯を量り、地道なトレーニングで汗を流す。
この静かで凡庸な日常の重みだけが、俺を「バケモノ」の側へ堕ちることから引き留めてくれている。
「……相変わらず、ストイックね。そんな味気ない食事ばかりじゃ、精がつかないわよ?」
不意に、背後からふわりと甘い香りが漂い、豊満な柔らかい感触が俺の背中に押し付けられた。
真紅のチャイナドレスの上にフリルのエプロンという、ひどくアンバランスで刺激的な格好をしたチャオが、俺の首に妖艶に腕を絡ませてきたのだ。
「チャ、チャオさん……近い。朝から刺激が強すぎる」
「あら、これくらいで動揺してどうするの? 中国の薬膳をたっぷり使った朝食を作ってきたの。これを食べて、私と力の『循環』の続き、ベッドでじっくりと……」
チャオの艶やかな唇が俺の耳元に触れそうになった瞬間。
ピキィィィィンッ……!!
キッチンのシンクに張られていた水が、一瞬にして絶対零度の氷柱へと変わり、チャオの頬の真横を鋭く掠めた。
「……朝から発情期かしら、中国の泥棒猫さん。彼の栄養管理は私が完璧に計算しているの。出所不明の怪しい薬膳なんて必要ないわ」
振り返ると、エプロン姿の雪乃が、包丁を握りしめながら零下数十度の殺気を撒き散らして立っていた。
完全に傷の癒えた彼女は、ここ数日、アパートの合鍵を使って毎朝のように俺の部屋に入り浸っている。そして、俺の『氣』の師匠であるという名目で平然と居座っているチャオと、毎日のように火花を散らしていた。
「ふふっ、怖い怖い。でも、強い男には、それに見合った『癒やし』が必要よ? いつまでも清純派を気取っていると、本当に私に寝取られちゃうかもね、雪乃」
「……やれるものなら、やってみなさい。その前に氷漬けにして海に沈むことになるかもしれないけれど」
「ストップ、ストップ! 頼むから俺のアパートを戦場にしないでくれ……!」
俺は頭を抱えながら、二人の間に割って入った。
海での激戦を終え、束の間の休息……のはずが、この二人のせいで休まる暇が全くない。
「邪魔するぜー! 」
さらにそこへ、玄関のドアを乱暴に開けて上がり込んできたのは、両手に高級な霜降り肉とビールの缶を大量に抱えた東だった。
その後ろからは、舌打ちをしながらも何故かメロンの入った箱を抱えた獅子神が、不機嫌そうに部屋に入ってくる。
「おい、勝手に入るなよ! っていうか、なんで俺の部屋に……」
「ガハハ! いいじゃねえか。ダンジョンでの勝利と、全員無事に生還した祝いだ! ほら、雪乃ちゃんとチャオ嬢ちゃんも、肉焼くから座れ座れ!」
「……チッ。神代の野郎が、たまには親睦を深めろとうるさいから来てやっただけだ。勘違いするな、モヤシ」
獅子神が乱暴にメロンの箱をテーブルに置き、ドカッとソファに腰を下ろす。
狭いアパートのリビングに、日中のトップ探索者たちがひしめき合い、たちまち焼肉の匂いとビールの缶が開く音が充満し始めた。
騒がしくも温かい、俺が守りたかった日常の光景。
俺は苦笑しながら、手元のサツマイモを齧った。
「そういや湊」
上機嫌でビールを呷っていた東が、ふと真面目な顔つきになって声をかけてきた。
「お前、あの新宿の底で顔が異形の天使みたいなモンスターを倒した時、ステータスに妙な『加護』の文字が追加されてたって言ってたよな?」
「ああ。『炎神の加護』だ。炎の操作性があがったのと単純に威力も上がったと思う」
「やっぱりか……」
東は肉を頬張りながら、ニヤリと笑った。
「実は俺にも、あの時から『雷神の加護』ってのが発現しててな。今まではただ雷を放つだけだったが、今は雷を『生き物』みたいに自在に操れるようになって、威力も桁違いだ」
「……俺は『獣神の加護』だ」
黙って肉を食っていた獅子神が、ボソリと口を開いた。
「怪我の治癒速度がバグみたいに跳ね上がった。それに、怒りや痛みが強いほど、際限なく力が引き上げられる。……理屈は分からねえがな」
俺は驚きで目を見張った。
あの新宿の最深部、人類未踏の第87階層を攻略した成果はただステータスを上げただけではなかったようだ。
極限の死闘を越えた俺たち三人に、それぞれ異なる「神の加護」という新た力。
俺は、さらに海洋ダンジョンで手に入れたもう一つの加護の文字を思い出していた。
『闘神の加護』
この数日間、自室で静かに魔力を練りながら、俺はこの新しい加護の正体を探っていたのだ。
「ちょっと、風に当たってくる」
俺はベランダに出ると、空中にステータスウインドウを展開し、短く息を吸い込んだ。
「……来い」
意識を集中させ、体内の魔力回路に意識を向ける。
俺の右腕に赤黒い陽炎が纏わりつく。その熱を外へ逃がさない完全な魔力循環の結晶――仮想武具『炎神の小手』を発現させる。
これまでは、どうやってもこの右腕を武装化させるだけで精一杯だった。
だが、今回は違う。
俺はさらに意識を集中し、魔力を体内で循環させたその瞬間
ボゥッ
空気が震えて周囲の温度がほんの僅か上がる。
そして、俺の体内で循環していた爆発的な熱量が体内を分岐し、俺の左腕、そして両脚へと同時に流れ込んだのだ。
赤黒い液体のような炎が、這い上がるように俺の四肢を覆い尽くし、やがてガラスのように滑らかで強固な「装甲」として定着する。
「……これが『闘神の加護』の力か」
俺は、炎の装甲に覆われた自分の両手両足を見つめて息を呑んだ。
以前なら、複数箇所に無理やり熱をコントロールして定着させようとすれば、魔力が制御を失い霧散していた。
だが、闘神の加護が加わってからは今までの感覚が嘘のように体内を循環する魔力が思いのままにコントロールでき、四肢に炎を完全に安定させている。
だが。
「……くっ、重い……!」
ズシッ、と。
目眩がするほどの極度の疲労感が襲い、俺はたまらずベランダで片膝を突いた。
【MP】420,000 / 496,160
「四部位の同時展開だけで、毎秒数千のMPが持っていかれるのか……」
耐久値をMPで肩代わりする以上、複数展開すればそれだけ維持コストは跳ね上がる。現状のMP約50万では、この四肢武装状態を全力で維持できるのは長くて数分といったところだ。
圧倒的な力だが、まだ燃費が悪すぎる。
俺が汗を拭いながら立ち上がろうとした、その時だった。
リビングに置いていた俺の防衛省専用の通信端末と、東や獅子神の端末が、同時にけたたましい緊急アラートを鳴らし始めたのだ。
「……なんだ!?」
俺は慌ててリビングへと戻った。
東が血相を変えてテレビのリモコンを操作し、臨時ニュースのチャンネルをつける。
画面に映し出された光景に、部屋にいた全員が息を呑み、言葉を失った。
『……繰り返します! 九州全域の主要ダンジョンから、同時多発的なダンジョンブレイクが発生! 凄まじい数のモンスターが地上へ溢れ出し、現在、福岡、熊本、大分を含む九州のほぼ全土が、モンスターの完全な占領下に置かれました……ッ!』
上空からのヘリの映像。
かつては活気に溢れていた九州の街並みが、見渡す限りの黒い波――数百万体はいるであろう異常な数のモンスターの群れによって、完全に飲み込まれていた。
ビルは倒壊し、炎が上がり、探索者たちが築いたであろう防衛線は紙屑のように破られている。
「嘘、だろ……」
東が、手に持っていたビールの缶を取り落とした。
彼は九州のトップギルドの長であり、『雷帝』として九州のダンジョンを誰よりも守ってきた男だ。その彼の故郷が、一瞬にして地獄の底へと叩き落とされたのだ。
『……死者の数は、すでに過去最大の数十万人に上ると推測されています。さらに、現在、モンスター側の「何者か」から、防衛省に対して直接の通信ジャックが行われており……』
ニュースキャスターの悲痛な声が途切れ、テレビの画面がザザッと乱れた。
やがて、ノイズの中から一つの映像が浮かび上がる。
血の海に沈んだ福岡の市街地。
その中央に、玉座のように積み上げられた人間の死体の山。
そこに座っていたのは、漆黒の甲冑を身に纏い、頭部に悪魔のようなねじれた二本の角を生やした、人間サイズの『モンスター』だった。
そいつの口元は、明確な「嘲笑」の形に歪んでいた。
『――聞こえているか、人間ども』
流暢な、しかしどこか人間とは異なる感情のない声
そいつの足元には、恐怖に震えながら身を寄せ合う数千、いや数万の市民たちが、檻に閉じ込められた家畜のように押し込められていた。
『我らはダンジョンの意思そのもの。この土地は、我々が新たな苗床として頂戴した。……現在、この檻の中には、約五十万人の「人質」がいる』
「人質、だと……!?」
獅子神がギリッと奥歯を鳴らす。
モンスターが人間を食い殺すのではなく、人質として交渉のテーブルに引きずり出してきたのだ。そんなことは過去一度たりとも起きたことがない。
『要求は一つ。貴様ら人間の中で、最も強い「五人の戦士」を、この九州へ寄越せ』
漆黒の悪魔を連想する姿のモンスターはカメラのレンズを指差し、目を三日月の形に歪めた。
『1か月ほど猶予をやろう。貴様らが用意できる最高戦力をつれてこい。我らとこの世界の命運をかけて五対五で戦を行おうではないか。貴様らが勝てば、この五十万の家畜は返してやる。だが、もし逃げたり、あるいはつまらぬ行動を起こせば……五十万人の人間は全て喰らい尽くし、次は海を渡って「本州」の人間どもを根絶やしにしてやろう』
プツン、と。
そこで映像は途切れ、再びキャスターの混乱した顔が画面に戻った。
静まり返るリビング。
肉の焼ける匂いも、先ほどまでの温かい日常の空気も、完全に凍りついていた。
「……ふざけやがって」
沈黙を破ったのは、東だった。
彼は床に落ちたビールの泡を見つめたまま、全身からバチバチと紫色の雷のオーラを漏出させていた。
「俺の……俺の守ってきた連中をゴミみたいに蹂躙しやがって……!! ぶっ殺してやる……今すぐ九州へ飛んで、あのクソ野郎の首をへし折ってやる!!」
激昂し、アパートの窓から飛び出そうとする東の肩を、俺はガシリと強く掴んだ。
「待て、東さん! 冷静になれ!!」
「離せ湊! あいつらは俺の……っ!」
「落ち着いてください!」
俺の怒鳴り声に、東がハッと息を呑む。
「相手の実力は未知数で知性も兼ね備えてる。ただの力押しじゃ、五十万人の命を守りきれるか分からない。……だから、万全の準備をして行くんだ」
俺は、東の目を真っ直ぐに見据えた。
そして、後ろで黙って拳を握りしめている獅子神と、静かに青龍刀を構え直したチャオ、そして双剣を握る雪乃を振り返る。
「湊……」
俺の言葉に、東の瞳からスッと冷静な、しかし先ほどよりも遥かに深い絶対零度の殺意が宿った。
「ああ……そうだな。……取り乱してすまねえ」
「この状況では誰でも仕方ない」
俺たちは無言で頷き合い、武器を手にした。
過去最大の死者を出し、五十万人の命が懸かった、前代未聞のモンスターとの『代表戦』




