赫灼の業腕
真っ二つに割れた海面が、数秒の遅延を経て、轟音と共に元の位置へと崩れ落ちる。
吹き荒れる潮風と、蒸発した海水が作り出した濃密な白い霧。その中で、アメリカのトップギルドのうちの一つである『リバティ・プライム』の探索者たちは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「……オーマイゴッド。信じられない。たった一振りだぞ。Aランク上位の深層種数十体を、一撃で……」
リーダー格の男が、震える声で呟く。
彼らの視線の先、霧が晴れた海岸線には、赤黒い陽炎を右腕に纏った湊が一人、静かに立っていた。
俺は自身の右腕を覆う炎の膜――仮想武具『炎神の小手』を見つめ、静かに息を吐いた。
(……なるほど。これが『耐久値=MP』ってことか)
先ほどの絶大な一撃。巨大蟹の甲羅と深層モンスターの群れを粉砕した瞬間、俺の脳内に直接響くようにフィードバックがあった。
【仮想武具耐久値(MP)】496,160 → 495,850
物理的な衝撃や、熱を放出する際の負荷。それら武具が受けるすべてのダメージを、俺の莫大な「MP総量」が肩代わりして減算されているのだ。
MPが尽きない限り、この右腕の炎が砕けることは絶対にない。以前までのように高価な素材の武器が熱量に耐えきれず爆散する悲劇は、もう起きない。
「……MP約50万。これなら、何千発でも全力で殴れる」
俺の口角が吊り上がった、その時だった。
空が、不自然なほどに暗く淀んだ。
荒れ狂う太平洋の上空。灰色の雲が渦を巻き、空間そのものが「ガラスのように」パキパキとひび割れ始めたのだ。
『――よもや、私の庭先でこれほど騒々しく羽虫が飛び回るとはな』
空間の亀裂から、一人の男がゆっくりと降り立った。
長い銀髪。整いすぎた冷酷な顔立ち。そして、背後で揺らめく九本の眩い光の尾。
『九尾』。
「……出たな。わざわざお出迎えとは、ご苦労なこった」
俺は、右腕の炎を揺らめかせながら、九尾を見上げてニヤリと笑った。
九尾の銀色の瞳が、周囲に散乱する深層モンスターの残骸と、俺の右腕を交互に見比べる。
『……貴様。やはり、あの時の人間か』
「覚えていてくれて光栄だよ。言っただろ? 今度こそ跡形もなく灰にしてやる」
『思い上がるな、ゴミ屑がァァァッ!!』
九尾が激昂し、右手を振るった。
発動の予備動作も、魔法の詠唱もない。前回の海洋ダンジョン探索で、アメリカと中国の探索者たちを一瞬で両断し、紙のように切り裂いた、あの理不尽な『空間切断(次元断)』。
不可視の刃が、空間そのものをズラしながら俺の首へと迫る。
「危ないッ!!」
後方でアメリカの探索者が悲鳴を上げた。
だが。
「……遅い」
俺は一歩も引かず、ただ無造作に、赤黒い陽炎を纏う『右腕』を正面に突き出した。
ガキィィィィィィィィィンッ!!!!
世界が壊れるような、甲高い激突音。
空間を切り裂くはずの絶対の刃は、俺の『炎神の小手』に触れた瞬間、見えないガラスが砕け散るようにパキィンと音を立てて四散した。
【仮想武具耐久値(MP)】495,850 → 490,000
(MPが五千ほど削られたか……)
『なっ……!? 馬鹿な! 我が次元の断絶を、ただの腕で弾いただと!?』
九尾の顔に、明確な「驚愕」が浮かんだ。
その瞳が初めて恐怖に染まる前に、俺は足元の砂浜を蹴り飛ばして爆発的な加速。それに加え、足裏から火属性魔法の爆炎をスラスターのように噴射し、推進力をさらに何倍にも跳ね上げる。
「消し飛べ、バケモノッ!!」
一瞬にして九尾の懐に潜り込んだ。
九尾は慌てて九本の尾を束ね、自身の前面に何十重もの「絶対防御のマナ障壁」を展開しようとした。
だが、その壁が構築されるよりも速く。
膨大な出力を孕んだ右腕が、九尾の胴体へと深々と突き刺さった。
ドゴォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!
抵抗など、一切なかった。
マナ障壁も、強靭な肉体も、特異知性体としての誇りも。
九尾の上半身は「破裂」することすら許されず、触れた瞬間から細胞レベルで完全に蒸発し、文字通り『消し飛んだ』。
『――――』
断末魔すら残らない。
下半身だけになった九尾の残骸が、ドサリと砂浜に崩れ落ち、やがて大量の光の粒子となって太平洋の風に溶けていった。
かつてあれほど人類を絶望させた深淵の王属は、今の俺にとっては、ただの路傍の石に過ぎなかった。
「……拍子抜けだな」
俺は残心もそこそこに、視線を沖合――どす黒い瘴気が渦巻く太平洋の中心へと向けた。
親玉を失ったとはいえ、ダンジョンの核が存在する限り、モンスターの氾濫とマナ汚染は止まらない。
俺は通信機越しに、防衛省の地下指令室でモニターを見つめているであろう仲間たちへ声を飛ばした。
「神代さん、雪乃、チャオ。……今からダンジョンのコアをぶっ壊してくる。海鳴りがうるさくなるから、耳でも塞いでおいてくれ」
『湊……! 気をつけて!』
『ふふっ、いってらっしゃい、私の英雄』
雪乃の心配そうな声と、チャオの楽しげな声が鼓膜を打つのを聞き届け、俺は海面へ向けて跳躍した。
ズドォォォォォォンッ!!
足裏から極大の爆炎を噴射し、海面を滑るようにして沖合の渦巻きへと突入する。
「邪魔だ!!」
海中から溢れ出ようとするモンスターの群れを、右腕の一振りで海流ごと蒸発させながら、俺は海底三千メートルにある海洋型ダンジョンの入り口へと一直線に潜行した。
第4階層、第5階層、第6階層――。
かつては一歩進むのにも血反吐を吐いた深層の道程を、俺はただ真っ直ぐに、立ち塞がる全てを右腕で消し飛ばしながら「落下」していく。
もはや戦闘ではない。ただの蹂躙だ。俺の通過した跡には、モンスターだった光の粒子と、沸騰した海水の泡しか残らない。
そして、ダンジョンの最深部――『第10階層』。
そこに広がる巨大なドーム状の空間には、天を突くほど巨大な「世界樹」のような珊瑚の塔がそびえ立ち、その根元で、心臓のように脈打つ巨大な『マナのコア』が青白い光を放っていた。
『ギョロロロロォォォォッ!!』
コアを守護する数体のモンスターが立ち塞がるが、俺は止まらない。
「これで、終わりだッ!!」
コアへ向けて渾身の右ストレートを放つ。
ピキッ……。
俺の拳がコアに触れた瞬間、時が止まったかのような静寂が訪れた。
次の瞬間。
パァァァァァァァァァァァンッ!!!!
太陽が爆発したかのような極大の光が、第10階層全体を包み込んだ。
ダンジョンの核が完全に粉砕され、凝縮されていた膨大なマナが浄化の光へと変換されていく。海底の岩盤が鳴動し、マナの汚染でドス黒く染まっていた太平洋の海水が、急速に本来の透明な青色を取り戻していく。
「……終わったな」
崩壊していくダンジョンの光の中で、俺はゆっくりと息を吐いた。
その時、脳内に無機質なシステムアナウンスが鳴り響く。
『ダンジョンの最深部コア破壊を確認。ダンジョンの消滅プロセスへ移行します』
『特異知性体・九尾、およびモンスター27体の討伐を確認』
『天谷 湊:4,500,000ポイントを獲得』
『条件クリア。新たな加護を獲得しました』
俺は光に包まれながら、空中にステータスウインドウを展開した。
【ステータス】
【名前】天谷 湊
【HP】300,000 / 300,000
【MP】468,400 / 496,160
【筋力】350,000
【俊敏】380,000
【知力】250,000
【魔力】400,000 (魔法:火属性Lv.3)
【保留ポイント】6,460,000
【特殊加護:炎神の加護 / 闘神の加護】
九尾と無数のモンスターを単独で屠り、そしてダンジョンコアそのものを破壊したことによる、異常なまでのポイント加算。
元の196万ポイントに450万ポイントが上乗せされ、保留ポイントはついに【6,460,000】というとてつもない数値に達していた。
さらに、新たに追加された【闘神の加護】の文字。
詳細はまだ分からないが、ダンジョンが完全に光の粒子となって海に溶けていく。
任務は完了した。人類の海は、守られたのだ。
俺が地上へ帰還しようと背を向けた、その瞬間だった。
『――よもや。この浅瀬に派遣した我が駒が、ただのヒトの子に屠られるとはな』
ゾワッ……!!
全身の毛穴が、一斉に逆立った。
崩壊していくダンジョンコアの奥。空間の歪みの中に、漆黒の『裂け目』が開いていた。
そこから覗いていたのは、一つの巨大な「眼」だった。
人間のような瞳孔ではない。宇宙の深淵をそのまま凝縮したような、絶対的な虚無。
九尾が放っていたプレッシャーなど、児戯に等しい。
その眼に見下ろされただけで、俺の右腕が本能的な恐怖でガタガタと震えを打ち始めたのだ。
「てめぇは……何者だ……ッ!」
俺が炎の右腕を構え、声帯を震わせて問うと、その漆黒の眼は酷く冷酷に細められた。
『我は深淵の玉座。……名乗るほどの者ではない。だが、システムという矮小な箱庭で踊る羽虫が、我ら深淵の理に触れた事実は称賛に値する』
その声は、鼓膜ではなく、俺の脳髄を直接揺らした。
九尾がモンスターたちの「王」であるならば、こいつはその上位存在ということか
『楽しみにしているぞ人類のイレギュラーよ。本当の地獄の底で、貴様が絶望に染まる日をな』
言葉を残し、漆黒の裂け目はパチンと弾けるように消失した。
あとに残されたのは、浄化された美しい海と、静寂だけ。
だが、俺の心臓は未だに早鐘を打っていた。
「……上等だ。地獄の底だろうがなんだろうが、俺が全部、焼き尽くしてやる」
震える右手を強く握りしめ、俺は地上へと向けて海を蹴った。
人類の海は守られた。
だが、その代償として、俺たちは知ってしまったのだ。これまでの戦いが、ただの前哨戦に過ぎなかったという絶望的な事実を。
天谷湊の、そして人類の真の戦いが、今ここから始まろうとしていた。




