海洋型ダンジョン〜後日譚〜
深い、泥のような闇の底から、規則的な電子音が俺の意識を浮上させた。
「……ん……」
重い瞼をこじ開けると、視界を埋め尽くしたのは殺風景な白い天井だった。
微かに漂う消毒液の匂い。シーツの冷たい感触。
ここは防衛省が管轄する、探索者専用の特別医療病棟だ。
「天谷さん……っ!」
ベッドの傍らから、弾かれたような声が上がった。
首を巡らせると、右腕を痛々しく三角巾で吊った結衣が、大粒の涙をボロボロとこぼしながら俺の顔を覗き込んでいた。
「結衣……。お前、無事だったのか……」
「はいっ、はい……! 天谷さんが、私たちを護ってくれたから……っ!」
結衣は俺の左手にすがりつき、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
俺はひどく怠い身体を動かし、重い右腕を上げて、彼女の頭をゆっくりと撫でた。
「雪乃さんは……」
「隣の病室です。腹部の傷は塞がって、今は絶対安静ですが、命に別状はありません。……天谷さん、本当に良かった……。一週間も目を覚まさないから、私……っ」
「一週間、か」
俺は小さく息を吐いた。
結衣の口から、あの地獄の後の顛末が語られた。
獅子神が俺たち三人を抱えて海上の揚陸艦へ帰還した後、他国の部隊も命からがら海面へと逃げ延びてきたという。
雪乃と結衣の傷は、日本の医療部隊の魔法では回復が追いつかないほど深かった。
二人を救ったのは、中国のトップギルド『神龍』の支援艦に待機していた、氣功術に特化した特級治癒隊員だった。
東洋医学と魔法を融合させたその術式によって、二人は奇跡的に一命を取り留めたのだ。
「……中国の連中には、頭が上がらないな」
「ええ。ですが、そのお礼は高くつきそうですわよ」
病室のドアが開き、車椅子に乗った雪乃が入ってきた。
青白い顔色だが、その瞳に宿る氷のような強い意志は健在だ。彼女の後ろから車椅子を押しているのは、なんと中国『神龍』の部将、趙雲蘭その人だった。
「目が覚めたようね、私の英雄」
チャイナドレスを模した真紅の特注戦闘衣に身を包んだ趙が、妖艶な笑みを浮かべて俺のベッドの脇へと歩み寄ってきた。
「趙、さん……。あんたたちの部隊の治癒術師が、二人を救ってくれたと聞いた。心から感謝する」
「気になさらないで。一時的とはいえ、私たちはあの地獄で背中を預け合った同盟国。それに――」
趙はベッドの縁に腰を下ろすと、長い黒髪をかき上げ、俺の顔を至近距離から熱を帯びた瞳で見つめ下ろした。
「私、純粋な『力』で運命をねじ伏せる男が好きなの。あの九尾のバケモノを相手に、たった一人で殿を務め、見事に打ち倒した……あなたのあの異常な強さと狂気に、本気で惚れたわ」
彼女の白く細い指先が、俺の頬を滑る。
結衣が「ひゃっ」と息を呑み、雪乃の周囲の空気が急速にマイナス数十度まで冷え込んでいくのが分かった。
「私と結婚しなさい、天谷湊。中国へ来れば、国賓以上の待遇と、望む限りの財力、そして世界最高峰の武具を約束するわ」
「は……? け、結婚……?」
突拍子もない提案に、俺は完全に思考が停止した。
「ええ。個人的な熱情はもちろんだけれど、これは『国家防衛』という合理的な目的もあるのよ」
趙は悪びれる様子もなく、妖艶な笑みを深める。
「現在、世界のダンジョンはかつてない変異を起こしている。強大な力を持つ探索者の血筋は、国家にとって最重要の防衛資源よ。あなたのその規格外の遺伝子と力を、我が『神龍』に迎え入れたいの。……どう? 悪い話ではないはずよ」
あまりにもストレートで、ぐいぐいと踏み込んでくる肉食獣のようなアプローチ。
俺が返答に窮していると、凄まじい冷気を纏った雪乃の車椅子が、俺と趙の間に強引に割って入った。
「……寝起きの重傷者相手に、随分と非常識な求婚ですこと。彼にはすでに、私というパートナーがいますけれど?」
「あら、ただのパーティメンバーでしょう? それとも、日本の探索者はプライベートまでギルドに縛り付けられるの?」
「彼がどこで誰と生きるかは、彼自身が決めることです。それに、彼はあなたの国のような『鳥籠』に収まる器じゃありません」
火花を散らす氷の剣士と真紅の龍。
結衣がオロオロと二人の間を行ったり来たりしている。
「……ストップ、ストップだ。二人とも」
俺は頭痛を堪えるように額を押さえた。
「趙さん。気持ちはありがたいし、命を救ってもらった恩は必ず返す。……だが、俺は日本を離れるつもりはないし、誰かの所有物になるつもりもない」
俺の明確な拒絶に、趙は少しだけ残念そうに目を伏せたが、すぐにフッと余裕の笑みを取り戻した。
「ふふ、いいわ。そういうブレないところも魅力的よ。……でも、諦めないから。いつか必ず、あなたを私のものにしてみせるわ」
趙が優雅に立ち上がると、それまで病室を満たしていた華やかな空気が、一瞬にしてシビアな戦場のそれへと切り替わった。
「冗談はここまでよ。……ここからは、現実の話をしましょう」
趙が腕を組み、窓の外――西東京の街並みを見下ろした。
「結果として、日米中の合同突撃班は、第3階層で事実上の『全滅』を喫した。たった一体の敵の前にね」
その言葉に、病室に重く苦しい沈黙が降りた。
俺も、雪乃も、その事実を痛いほど理解していた。あのアメリカの『ヴァルハラ』でさえ、九尾の前では赤子同然だったのだ。
「あの海洋型ダンジョンの調査と攻略は、現在『不可能』と判断されたわ。マナの汚染を食い止める手段は見つかっていないけれど、これ以上の無意味な戦力喪失を防ぐため、国連主導で各国の部隊に『自国への一時帰還』の命令が下ったの。私も、明日には中国へ戻るわ」
「打開策もなしに、海を放置するのか……?」
俺が顔をしかめると、趙は首を横に振った。
「放置ではないわ。『時間稼ぎ』よ。マナの汚染が致命的なラインに達するまで、計算上あと数ヶ月の猶予がある。それまでに、各国は自国の最高戦力を再編成し、あのバケモノたちを打倒するための『新しい力』を開発しなければならない」
日本も例外ではない。
現在、神代や防衛省のトップが連日会議を重ねているが、物理的な突破口は全く見出せていないという。
ダンジョンの深淵から現れた「深層の遥に超える」クラスの特異知性体。彼らに対抗するには、これまでのステータスやスキルいったシステムの恩恵だけでは限界があるのだ。
趙が病室を出て行った後、俺は一人、自らのステータスウインドウを空中に展開した。
【ステータス】
【名前】天谷 湊
【HP】100,000 / 100,000
【MP】196,160 / 196,160
【筋力】180,000
【俊敏】197,800
【体力】50,000
【知力】53,040
【魔力】200,000 (魔法:火属性Lv.2)
【保留ポイント】0
文字通り俺の「命の貯金」であった保留ポイントは、完全にゼロになった。
頼みの綱であった『崩星の籠手』も、スキルの代償として粉々に砕け散り、俺は今、丸腰の素手だ。
「……どうすればいい」
窓の外の青空を睨みながら、俺はギリッと奥歯を噛み締めた。
九尾が放った、空間そのものを切り裂く理不尽な次元断。
あれを力でねじ伏せ、最愛の仲間たちを守り抜くためには、ただステータスを上げるだけではな足りない。何か明確に圧倒的な力が必要だ。
保留ポイントという最大の武器を失った俺に、残された道はただ一つ。
自らのステータスとスキルをさらに上の強さへ引き上げる何かをみつけること。
そして、あのバグのように限界突破した『武具の強化』の条件を解明し、再びそれを引きずり出すこと。
「必ず、見つけ出してやる……」
深い無力感と焦燥感に包まれながらも、俺の瞳に宿る『炎』は、決して消えてはいなかった。
世界が絶望の淵で立ち止まっているこの数ヶ月の間に、俺は必ず、あの深淵を越える力を手に入れてみせる。




