海洋型ダンジョン3
深海三千メートルの海底岩盤を穿ち、突如として海中へ顕現した海洋型ダンジョンの内部
海水がマナの膜によって完全に弾かれた巨大な空洞の回廊を、俺たちは慎重な足取りで進んでいた。
「……ハァ、ハァ……ッ」
息が上がる。全身の筋肉が軋みを上げ、肺が酸素を渇望していた。
それは俺だけではない。
隣を歩く雪乃の息も乱れ、後方で警戒に当たる他の面々の表情にも、隠しきれない濃密な疲労の色が浮かんでいる。
あの獅子神でさえ、苛立たしげに舌打ちを繰り返し、拳から滴る黒い血を何度も床に振り払っていた。
おかしい。明らかに、異常だった。
俺たちは日本が誇る最高戦力、『七星』を中心とした精鋭部隊だ。
他のダンジョンであれば、深層と呼ばれる第50階層や第60階層に潜ったとしても、ただの道中のモンスター相手にこれほど消耗することは考えにくい。
だが、この深海迷宮は、これまでの常識を根本から嘲笑っていた。
『――ギョロロロロロロロロロッ』
回廊の暗がりから、ぬらりと姿を現した異形の影。
先ほど入り口で遭遇した巨大サメや半魚人など、可愛いものに思えるほどの悍ましさ。
漆黒の甲殻に覆われた多脚の肉体。頭部にあたる部分には眼球がなく、代わりに無数の触手が蠢き、周囲の空間そのものを「味わう」ように揺らめいている。
【ランク:測定不能】
【名称:絶海を這う者】
「また出やがったか……! クソったれが、底なしかよこのダンジョンは!」
東が咆哮と共に、両手から極大の紫電を放つ。
空気を焦がす数百万ボルトの雷撃。
Aランクの変異種であっても一撃で炭化するはずのその魔法を異形のモンスターは「喰らった」。
正確には、甲殻の表面に張り巡らされた未知の粘液が雷のエネルギーを瞬時に拡散・吸収し、ダメージを完全に無効化してしまったのだ。
「俺の雷を無効化しやがっただと……!?」
『ギョチチチチッ!』
異形が不快な鳴き声を上げると同時に、周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。
重力異常。いや、局地的な『水圧』の操作だ。空気しかないはずの回廊の空間に、深海一万メートル相当の不可視の圧力が生み出される。
「くっ……! 身体が……!」
『銀閃』の雪乃の動きが、泥沼に足を取られたように極端に鈍る。
その僅かな隙を突き、異形の鋭利な前脚が彼女の首筋を刈り取ろうと迫った。
「雪乃ッ!!」
「邪魔だァァァッ!!」
獅子神が横から割り込み、剛拳を異形の甲殻に叩き込む。
凄まじい衝撃波が回廊を揺るがすが、甲殻はひび割れるのみで砕け散るには至らない。
(打撃の衝撃が、甲殻の下の流体で分散されている……!)
「天谷さん、合わせますッ!!」
「頼む、結衣!」
結衣の【完全均衡の祝福】による全ステータス5倍の黄金のオーラを纏い、俺は獅子神の打撃で作られた「甲殻のひび」へと、正面から滑り込んだ。
「吹き飛べェェッ!!」
極限まで圧縮した炎を拳に宿して、ひびの隙間にねじ込み、強引に起爆させる。
純粋な火力による内部からの破裂。
ドゴォォォォォォォォンッ!!!
異形の巨体が内側から爆発し、黒い体液を撒き散らしてようやく絶命した。
保留ポイントに【700,000】が追加されました
たった一体で見たこともない経験ポイント。
だがたった一体の雑魚モンスターを倒すためだけに、七星クラスの探索者が三人がかりで連携し、最大火力を叩き込まなければならない。
「……ふざけてるわ。こんなボス級、あるいはそれ以上のモンスターがうじゃうじゃでるなんて……日本のダンジョンデータに存在しないわよ」
雪乃が双剣を鞘に納めながら、忌々しそうに吐き捨てた。
「……おそらく、私たち人類がまだ到達したことのない深層のさらに奥深く――『未踏破』の領域に生息しているモンスターではないかしら」
御琴の分析に、全員が沈黙した。
渋谷のハブが転送した膨大なマナは、ただこの海洋ダンジョンを作っただけではない。地球の最深部に眠っていた「人類がまだ触れてはならない絶対の脅威」を引きずり上げてしまったのだ。
「……このままじゃ、ジリ貧だぜ」
東が息を整えながら周囲を見渡す。
「俺たちはかれこれ半日近くこの回廊をぶっ続けで進んでる。だが、まだ『第2階層』への階段すら見つかっちゃいねえ。いくら俺たちでも、このレベルのバケモノが無限に湧いてくる状況じゃ、いずれ魔力と体力が尽きるぞ」
獅子神も、今回ばかりは東の言葉に反論しなかった。
俺たちは圧倒的な絶望感と共に、回廊の奥に見える巨大な両開きの扉――安全地帯と思われる空間へと重い足を引きずった。
* * *
重厚な石の扉を押し開けると、そこはマナの光に照らされた円形の広間だった。
だが、そこには先客の姿が
「……動くな。それ以上踏み込めば、撃つ」
流暢な英語。広間の奥から、無数の銃口と、鋭く研ぎ澄まされた殺気が俺たちに向けられた。
俺たちと同様に、ボロボロに傷つき、血に塗れた戦闘服を纏った一団。
星条旗のエンブレムを肩に刻んだ、アメリカ合衆国のトップギルド『ヴァルハラ』の精鋭部隊だ。
さらに広間の反対側からは、青龍の刺繍が施された道着を着た一団が、無言で槍や青龍刀を構え、俺たちとアメリカ部隊の双方を睨みつけていた。
中国の最高戦力、『神龍』の部隊である。
日・米・中。
世界の頂点に立つ最強の探索者たちが、極限の疲労と緊張状態の中で、互いに武器を向け合う三つ巴の膠着状態。
「……ハッ。どいつもこいつも、ボロ雑巾みたいに薄汚いツラしやがって」
獅子神が、向けられた銃口を意に介さず、喉の奥で獣のように笑った。
「やんのか? てめぇらの持ってるそのオモチャごと、俺がスクラップにして海に沈めてやってもいいんだぜ」
「獅子神さん、やめてください!」
俺は獅子神の前に腕を出して制止し、米中両軍のリーダー格へと真っ直ぐに視線を向けた。
「俺たちは日本の『七星』だ。あんたたちと殺し合いをするためにここに来たわけじゃない。……それに、こんなところで人間同士で争っている余裕なんて、どの国にもないはずだ」
俺の言葉に、アメリカ部隊の中から一人の大柄な男が前に出た。
黄金のフルプレートアーマーに身を包み、身の丈ほどの巨大な戦斧を背負った男。アーマーのあちこちがひしゃげ、激戦の痕を物語っている。
「……彼の言う通りだ。武器を下ろせ、皆」
男が低くよく響く声で命じると、アメリカ部隊の探索者たちは渋々といった様子で銃口を下げた。
「私はアメリカ合衆国『ヴァルハラ』のギルドマスター、アーサー・ヴァンスだ。日本の『七星』の武勇は聞き及んでいる。……よもや、あなた方ほどの戦力をもってしても、この広間に辿り着くまでにこれほど消耗させられるとはな」
アーサーの言葉に、中国部隊の先頭に立っていた黒髪の美女が、手にしていた美しい装飾の槍を床にトンッと突いた。
「同感ね。私は中国『神龍』の部将、趙 雲蘭。……私たちの部隊は、ここまで来るのにすでに2名のAランクサポートメンバーを失ったわ」
趙の言葉に、俺たち日本勢に衝撃が走った。
あの中国のトップ部隊が、第1階層の時点で早くも死者を出しているというのか。
「……信じられないかもしれませんが」
アーサーが、広間の中央にある石のテーブルに、魔力駆動のホログラムマップを展開した。
「我々ヴァルハラの調査によると……驚くべきことに、この海洋型ダンジョンは『全10階層』までしか存在しない可能性が高い」
「全10階層だと!?」
東が声を荒げた。「冗談じゃねえ!たったの10階層で終わりなわけ……」
「事実です」
アーサーが重々しく首を振る。
「しかし、それは決して吉報ではない。……通常のダンジョンの深層でも見たことがないモンスターの数々………深層よりさらに奥の生態系が、たった10の階層に『超圧縮』されているということです。我々が戦っていたあのバケモノたちは、この地獄の中では『第1階層の雑魚』に過ぎない」
広間に、絶望的な沈黙が満ちた。
俺たちが血反吐を吐いて戦っていたのは、この超圧縮ダンジョンの入り口の門番でしかなかったのだ。
「このまま各国の部隊が単独で行動を続ければ、間違いなく第2階層、あるいは第3階層で全滅するでしょう。そしてこのダンジョンが暴走すれば、太平洋は死の海となり、世界は終わる」
アーサーは、テーブル越しに俺たち、そして中国の趙へと力強い視線を向けた。
「国境やギルドのプライドにこだわっているフェーズは、とうに過ぎました。我々は今この瞬間から、情報を共有し、手を取り合うべきです」
「……一時的な『世界同盟』を結ぼうというのね」
趙が、腕を組みながら目を細めた。
「アメリカの最新鋭の索敵マッピング技術。中国の『氣』を用いた広域の持久・回復戦術。そして……日本の、規格外の突破力の力」
「そういうことだ。お互いの弱点を補い合い、この広間に集った各国の最強戦力だけで『合同突撃班』を編成する。……どうだろうか、日本の英雄たちよ」
アーサーの提案に、日本チームの視線が交錯する。
御琴が静かに頷き、東が「面白えじゃねえか」とニヤリと笑う。雪乃も異論はないようで、双剣の柄を静かに撫でた。
獅子神は「チッ、足手まといが増えるだけだ」と悪態をつきながらも、壁に寄りかかって目を閉じた。それは彼なりの承諾のサインだった。
「……分かりました。日本も、その同盟に加わります」
俺が代表してアーサーの差し出した泥だらけの分厚い手を握り返すと、彼もまた力強く握力を返してきた。
「感謝する。……休足の時間はあと30分。その後、この先の『第2階層』へと続く扉を開ける」
各国の探索者たちが、互いに警戒を解き、広間のあちこちで座り込んで傷の治療や武器の調整を始めた。
結衣が、アメリカや中国の負傷したメンバーのもとへ小走りで駆け寄り、治癒魔法をかけて回っている。言葉は通じなくとも、その献身的な姿に、屈強な外国人探索者たちが次々と感謝の笑顔を向けていた。
俺は広間の壁に背を預け、自らの右拳を見つめた。
ただの日本のダンジョン攻略から始まった戦いが、いつの間にか、国境を越えた人類生存の総力戦へと変貌している。
(……やるしかない。この狂ったダンジョンを、絶対に踏破してやる)
俺は己のステータスウインドウを開き、これからの地獄の階層を見据えて、残されたポイントの割り振りを思案し始めた。
【ステータス】
【名前】天谷 湊
【HP】62,000 / 100,000
【MP】15,000 / 196,160
【筋力】180,000
【俊敏】197,800
【体力】50,000
【知力】53,040
【魔力】200,000 (魔法:火属性Lv.2)
【保留ポイント】744,000
人類の希望を託された日米中の合同突撃班は、息を潜めて次なる絶望の扉が開く時を待っていた。




