海洋型ダンジョン
**『マナ』**とは
ダンジョン内の空間を満たしている「未知の環境エネルギー」である。
探索者たちの激しい戦闘によってダンジョン内の壁や床が大きく破壊されたとしても、数日も経てば完全に元通りに修復されているのは、このマナが空間自体を自動修復しているからだ。さらに、倒されたモンスターが光の粒子となって消えた後、しばらくすると同じ階層に新たなモンスターが「リポップ(再発生)」する現象も、すべてこのマナが寄り集まって擬似的な生命体を再構築しているに過ぎない。
つまりマナとは、ダンジョンという巨大な生態系の「血液」であり「細胞」そのものなのだ。
渋谷地下の巨大な繭が最後に行っていたのは、日本中のダンジョンから吸い上げた膨大な『マナ』を、一箇所に強制転送するという途方もない現象だった。
その莫大な「ダンジョンの血液」が注ぎ込まれた先が――現在、モニターに映し出されている太平洋のど真ん中である。
防衛省・地下最深部。
巨大なメインモニターに映し出された太平洋の海域図には、禍々しい赤色の波長が、渦を巻くようにして急速に拡大していく様子が示されていた。
「……現在、小笠原諸島沖の海底およそ三千メートルの地点で、海底火山とは異なる異常な隆起が確認されています」
ダンジョン対策局の分析官が、青ざめた顔で報告を続ける。
「集束したマナが、海底の岩盤を書き換えているのです。隆起は凄まじい速度で海面へと向かっており、数日以内には巨大な『海洋型ダンジョン』として完全に浮上すると予測されます」
「最悪だな。……塩水とマナが混ざり合えば、どうなるか分かってるのか」
腕を組んだ神代が、冷徹な隻眼でモニターを睨み据えた。
「汚染、だ。高濃度のマナを含んだ海水は、通常の海洋生物にとっては猛毒となる。海流に乗ってマナ汚染が広がれば、太平洋の生態系は完全に破壊され、最終的には地球上のすべての海が死の海と化すだろう。それに探索者といえど容易に行ける場所ではないゆえに、万が一ダンジョンブレイクでも起きてモンスターが海に飛び出してきた日には………」
会議室に、重苦しい沈黙が降りた。
円卓を囲む七星たち――九州から急行した『雷帝』の東、東北から戻った『水王』の御琴、そして渋谷から帰還したばかりの俺と獅子神の顔に、等しく焦燥の色が浮かぶ。
「相手は海の中だぜ? ガハハ、俺の雷をぶっ放せば周囲の海水ごと感電して、味方まで全滅しちまうじゃねえか!」
東が頭を掻きむしりながら豪快に笑うが、その目は全く笑っていない。
「笑い事ではなくてよ、東。水圧、無酸素、極低温……人類にとって、宇宙空間に次いで生存に適さない極限環境。そこにダンジョンが形成されるとなれば、これまでの地上での戦術は一切通用しなくなるわ」
御琴が扇子を固く握りしめ、深刻な顔で同意する。
「……チッ。どいつもこいつもピーピー喚きやがって。海だろうがマグマだろうが、目の前の邪魔なもんをまとめてぶっ壊すだけだろうが」
獅子神が忌々しそうに舌打ちをした。
その時、会議室の重厚な扉が開き、凛とした足音が響いた。
「遅れました。京都エリアの『指揮官』とおぼしき個体の排除、および調査を完了しました」
「雪乃……!」
青白い戦闘衣に身を包んだ雪乃が、足早に円卓へと歩み寄ってくる。
彼女は神代に短い敬礼をした後、すぐに俺の方へと向き直った。その氷のように冷たい瞳が、俺の全身の怪我の具合を瞬時にスキャンするように見つめてくる。
「湊……渋谷の報告は聞いたわ。また無茶をして……右腕は、ちゃんと動くの?」
「ああ。結衣がすぐに治してくれたからな。完全復活とはいかないが、問題ない」
俺が右腕を回して見せると、雪乃はホッと安堵の息を吐き、隣に控えていた結衣に「ありがとう」と小さく頭を下げた。
「さて、状況は共有された通りだ」
神代が、円卓の全員に向けて低い声を響かせる。
「猶予はない。海洋型ダンジョンが完全に浮上し、マナの汚染が海流に乗る前に、内部へ突入してダンジョンの『核』を物理的に破壊する。何階層まであるかも未知数だが………、これは日本だけの問題ではない。アメリカ、中国のトップギルドもすでに独自の潜水部隊を編成し、同海域へ向かっているとの情報が入っている」
神代はスクリーンを切り替え、黒い海に浮かぶ巨大な渦の映像を映した。
「作戦開始は明朝マルヨンマルマル。潜水艦による深海への直接投下を行う。……各自、最悪の環境を想定した準備を怠るな。解散だ」
短い号令と共に、作戦会議は終了した。
それぞれが慌ただしく武器のメンテナンスや物資の調達に向かう中、俺は防衛省の廊下で壁に寄りかかり、自身のステータスウインドウを開いた。
【ステータス】
【名前】天谷 湊
【HP】85,000 / 100,000
【MP】24,500 / 196,160
【筋力】180,000
【俊敏】197,800
【体力】50,000
【知力】53,040
【魔力】200,000 (魔法:火属性Lv.2)
【保留ポイント】44,000
(……海、か)
俺は、ウインドウの最下段にある『魔法:火属性Lv.2』の文字を重い気持ちで見つめた。
せっかく血反吐を吐いて掴み取った俺の魔法は、皮肉なことに「炎」だった。
水圧と海水に覆われた深海迷宮において、俺の最大の武器である魔法打撃は、これまでどおり通用するのか?
「どうしたの、湊。難しい顔をして」
準備に向かおうとしていた雪乃が、俺の隣に立ち止まった。
「いや……次の戦場は、俺と絶望的に相性が悪いなと思ってな。物理打撃は水の抵抗で威力が落ちるし、せっかくの炎の魔法も海の中じゃ燃え上がらない」
俺が自嘲気味に笑うと、雪乃はスッと目を細め、俺の胸元を指で軽く突いた。
「馬鹿ね。環境に文句を言って勝てるなら、探索者なんて誰でもできるわ」
「厳しいな、相変わらず」
「事実よ。炎が水に弱いなら、水が蒸発するほどの『熱量』を叩き込めばいいだけのこと。あなたの中にある『魔力』は、そんな簡単に消えるようなヤワなものじゃないはずよ」
雪乃の力強い言葉に、俺はハッとした。
そうだ。魔力とは、自らの内に宿るエネルギーだ。環境に左右される必要などない。
水に消される炎なら、消される前に水を蒸発させるほどの圧倒的な火力を、この右拳に圧縮すればいいだけだ。
「……違いない。海を丸ごと沸騰させるつもりでいくさ」
深海という圧倒的な自然の脅威、そして他国のトップギルドたちとの邂逅。
未知なる領域『深海迷宮』への特攻が、静かにその幕を開けようとしていた。




