青き絶望の浮上
重いコンクリートの階段を一段登るごとに、肺を満たしていた粘り気のある瘴気が、少しずつ地上の冷たい空気へと置き換わっていくのを感じた。
封鎖された渋谷駅の地下入り口を抜けると、そこには夜の静寂が広がっていた。
かつてはネオンが不夜城のように輝いていたスクランブル交差点も、今は軍事用の仮設照明がポツポツと周囲を照らすだけの、薄暗い廃墟と化している。
「……空気が、美味いな」
俺はコンクリートの瓦礫に腰を下ろし、深く深呼吸をした。
地下で嗅ぎ続けていた血と泥と腐肉の匂いが、夜風に洗われていく。
「チッ……。俺にはカビ臭くてかなわねえよ」
獅子神は忌々しそうに空を見上げると、血に染まった戦闘服のポケットから煙草を取り出し火をつけた。
深く紫煙を吸い込み、夜空に向けて細く吐き出す。
満身創痍のはずだが、その背中は鋼鉄のように揺るぎない。
「天谷さん、お水飲みますか?」
結衣が、支給品のペットボトルを差し出してくれた。彼女もまた、極度の魔力消費と緊張から解放され、顔には深い疲労が滲んでいる。
「ありがとう。結衣も少し休め」
俺が水を受け取った、その時だった。
胸ポケットに入れていた防衛省の特殊通信端末が、短く鋭い電子音を鳴らした。
画面には『神代』の文字。俺は通話ボタンを押し、耳に当てる。
『天谷、獅子神、ご苦労だった。ダンジョン対策局の観測データから、渋谷地下のマナ・パルスが完全に消失したことを確認した』
「なんとか『ハブ』は潰しました。ですが、神代さん……ハブが崩壊する直前、蓄積されていた膨大なマナがどこかへ転送されました。他の探索者が潜ってるダンジョンに異変は?」
俺の報告に、通信の向こう側で神代が短く息を吐く音が聞こえた。
『いや、国内のどのダンジョンにも、マナの流入や異変は確認されていない』
「じゃあ、あの大質量のマナはどこへ消えたんでしょう?」
『……海だ』
神代の低く重い声が、夜風よりも冷たく俺の鼓膜を打った。
『人工衛星の熱源探知が、太平洋上――日本の領海すれすれの海域で、異常なマナの膨張を捉えた。……海底の地殻を突き破り、未知の「超巨大ダンジョン」が海面へと浮上し始めている』
「海……ッ!?」
俺は思わず立ち上がった。
これまでダンジョンは、陸地の特定のポイント(マナの吹き溜まり)にしか発生しなかったはずだ。海の中に迷宮ができるなど、前代未聞の異常事態である。
『渋谷のハブは、その海底迷宮を浮上させるための「起動エネルギー」を供給していたに過ぎないのだろう。……すぐに関西の柊と、九州の東に合流の指示を出す。君たちも一度、防衛省へ帰還しろ』
通信が一方的に切れる。
俺は端末を下ろし、じっと自分の右拳を見つめた。
せっかく掴んだ『炎』の魔法も、海の中、あるいは水没した迷宮が相手となれば、その威力は極端に制限されてしまう。
敵は、俺たち人類の戦力を分析した上で、最も戦いにくい環境を「選択」したのではないか。
「……行くぞ、モヤシ。お守りの時間は終わりだ」
獅子神が煙草を携帯灰皿に揉み消し、振り返りもせずに歩き出す。
「獅子神さん。……次は、背中くらい預けてもらいますからね」
俺の言葉に、獅子神は足を止めず、ただ鼻でフンと笑い飛ばした。
それが肯定なのか否定なのかは分からない。だが、確かに俺たちの間にあった氷のような不協和音は、死闘を経てほんの僅かだけ形を変えていた。
* * *
同刻。京都『千本鳥居の迷宮』深層。
――ズバァァァァッ!!
青白い閃光が闇を走り、重装甲のオーク・ジェネラルの首が音もなく宙を舞った。
ドスッ、と巨大な肉塊が崩れ落ちる。
「……これで、この階層のモンスターは最後ね」
柊雪乃は、双剣に付着した血糊を静かに振り払った。
彼女の足元には、統率された動きを見せていた変異モンスターたちの死骸が、文字通り山のように積み重なっている。
だが、雪乃の美しい双眸は、モンスターの死骸ではなく、その部屋の奥――瘴気の溜まり場で震えている「人間たち」に向けられていた。
「ひ、ひぃっ……! ば、バケモノ……ッ!」
最新鋭の防護服に身を包んだ数人の男たちが、雪乃の圧倒的な暴力の前に腰を抜かし、後ずさっている。彼らの足元には、モンスターから抉り出された大量のマナ結晶(魔石)を詰め込んだ特殊なコンテナが転がっていた。
「バケモノ、ね。確かに今の私はそうみえるかもしれないわ」
雪乃は氷のような冷酷な声音で、男たちを見下ろした。
「でも、あなたたちのような『腐肉喰らい(ハイエナ)』よりはマシな生き方をしているつもりよ。……非公認の裏ギルドの人間ね? 変異モンスターが規則的な陣形を組むのを利用して、安全圏から高純度の魔石を密猟していた」
世界が未曾有の危機に瀕しているというのに、その異常事態すらも「利益」に変えようとする人間の底知れぬ強欲さ。
雪乃が怒りを感じているのは、彼らが魔石を盗んだからではない。
「あなたたちが持ち込んだ『特殊なマナ誘引装置』……これが、モンスターたちを刺激し、このダンジョンの変異をさらに加速させていたのよ」
雪乃が一歩踏み出すと、男たちは悲鳴を上げて一斉に逃げ出そうとした。
「逃がすと思う?」
瞬きすら許されない速度。
雪乃は男たちの背後に一瞬で回り込み、双剣の「峰」で正確に全員の膝裏と首筋を打ち据えた。
「が、はッ……!」
「あ、足が……ッ!」
男たちが次々と床に転がり、呻き声を上げる。
雪乃はその中の一人――リーダー格らしき男の胸ぐらを掴み、冷たい刃をその喉元に突きつけた。
「誰の指示で動いているの。これだけ大規模な密猟と、特殊な機材の搬入……裏で糸を引いている『組織』があるはずよ。答えなさい」
「い、言うもんか……ッ! 俺たちだって、生き残るために必死なんだよ! いつダンジョンからバケモノが溢れて世界が終わるか分からないのに、国なんてアテにできるか!!」
男の絶望に満ちた叫びに、雪乃は僅かに目を伏せた。
力を持たない一般人からすれば、今のこの世界は終わりの見えない地獄そのものだ。恐怖が、人間を狂わせている。
「……そう。なら、私が終わらせてあげるわ。これ以上の悲劇が起きる前に」
雪乃は男を気絶させると、防衛省の捕縛部隊に座標を送信した。
直後、彼女の端末にも神代からの緊急招集の通信が入る。
「太平洋上に、新たな迷宮……湊」
雪乃は暗いダンジョンの天井を見上げ、誰よりも危なっかしいパートナーの無事を強く祈った。
【ステータス】
【名前】天谷 湊
【HP】55,360 / 100,000
【MP】1,282 / 196,160
【筋力】180,000
【俊敏】197,800
【体力】50,000
【知力】53,040
【魔力】200,000 (魔法:火属性Lv.2)
【保留ポイント】44,000




