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深緑の迷宮と、黄金の幻馬



長野ダンジョン、別名『深緑の迷宮』。


全30階層からなる広大な森林エリアは、本来であればBランク程度の探索者たちが緑豊かな環境で狩りを行う、比較的穏やかな迷宮だったはずだ。


だが、今の内部は視界を遮るほどの濃密な紫色の瘴気に覆われ、文字通りの「死の森」と化していた。


「……結衣、息苦しくないか?」


「はい、全然平気です。なんだか、悪い空気が身体の表面で弾かれているみたいで……」


結衣は不思議そうに自分の両手を見つめた。


無理もない。現在の結衣は、湊から譲渡されたポイントによって【HP】【体力】ともに高い耐久力を誇っている。


探索者における『HP』と『体力』とは、

HP(ヒットポイント / 生命力):

生命活動を維持するための「絶対的な器の容量」。これがゼロになれば死に至る。高ければ高いほど、致命傷になりうる攻撃を受けても生き延びることができ、出血や欠損などのダメージ許容量が増加する。


体力(フィジカル / 耐久力):

肉体そのものの「硬度」や「疲労への耐性」、そして外部からの干渉に対する「防壁」。体力が高いほど、敵の物理攻撃によるダメージを減衰させ、今回のような猛毒の瘴気や極端な温度変化といった環境ダメージを無効化することができる。


つまり、今の結衣は「Sランク相当の強固な鎧(体力)」を着込み、その内側に「膨大な生命力(HP)」を蓄えている状態だ。Aランク探索者すら数分で死に至らしめる猛毒の瘴気も、今の彼女にとってはそよ風と変わらなかった。


二人は、迷宮の奥深くへと歩みを進めていく。

「それにしても、異常だな」


「はい……事前の情報と、何もかもが違います」


このダンジョンは、10階層ごとにボス部屋が設けられている。


だが、第10階層にいたはずのボス『トレント(大樹のモンスター)』は、どろどろに溶けたヘドロのような粘体モンスターに変異しており、第20階層の『マザー・ベア』もまた、無数の目玉を持つ異形の肉塊へと姿を変えていた。


どれも、報告には一切上がっていないランク不明のバケモノばかりだ。

だが、それらの異常なボスたちも――。


「結衣!」

「はいっ! ――【完全均衡の祝福パーフェクト・バランス】!!」


湊の全ステータス5倍の暴力の前では、等しく「紙屑」でしかなかった。

湊の拳は特異知性体すら一撃で粉砕した圧倒的な火力が叩き出される。


『保留ポイント:22,000が加算されました』

『保留ポイント:30,000が加算されました』

『保留ポイント:24,000が加算されました』

『保留ポイント:44,000が加算されました』

『保留ポイント:33,000が加算されました』


道中のモンスターをステータスの経験値に変えながら下層へと駆け抜けていった。

だが、第27階層へ足を踏み入れた時のことだった。


「ひっ……!」


背後を付いてきていた結衣が、突如として足を止め、口元を両手で覆って激しくえずいた。


「おぇっ……げほっ、うぅ……っ」

「結衣! どうした!?」

湊が慌てて振り返り、彼女の視線の先を追う。


……そこには、目を背けたくなるような地獄があった。


巨木の根元に転がっている、ひしゃげたAランクの防具。


その中身だった「元・探索者」の肉体を、数匹の巨大な腐肉食いのグール・ウルフが、くちゃくちゃと不快な音を立てて貪り食っていたのだ。


「……ッ!!」


湊は即座にモンスターまで踏み込み、食事に夢中になっていた腐肉食いのグール・ウルフたちの頭部を蹴り飛ばして粉砕した。


『保留ポイント:12,000が加算されました』

『保留ポイント:12,000が加算されました』

『保留ポイント:12,000が加算されました』


周囲の安全を確保してから、へたり込んでガタガタと震えている結衣の目を、そっと両手で覆い隠す。


「ごめん。見なくていい」

「あ、天谷さん……うぅっ……」


結衣の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ち、湊の手を濡らした。


ステータスを大幅に引き上げられ、肉体はSランクのバケモノになったとしても。結衣の精神は、今まで後方で怯えていただけの、普通の少女のままなのだ。


同じ人間が生きたまま捕食され、無惨な肉塊に変わる光景。それが、異常事態に陥ったダンジョンの「現実」だった。


「……無理もない。俺だって、最初は吐き気を堪えるのに必死だった」


湊は結衣の背中を優しくさすりながら、静かに、けれど強い怒りを込めて前を睨み据えた。


「こんなふざけた悲劇を撒き散らしてる元凶を、早く叩き潰そう。……結衣、俺の背中から絶対に離れるなよ」


「はい……っ、はいっ!」

涙を拭い、杖を強く握り直す結衣。


その頼もしい相棒と共に、湊は迷宮の最深部――第30階層のボス部屋へと到達した。


   * * *


重厚な石の扉を押し開けると、そこにはドーム状に開けた巨大な空洞が広がっていた。

部屋の中心には、泉のようにマナが湧き出す台座がある。


「……ボスの姿が、ない?」


湊は訝しげに周囲を見渡した。

通常のボス部屋であれば、侵入者を感知した瞬間に巨大なモンスターが咆哮を上げるはずだ。


だが、この空間には瘴気が充満しているだけで、生き物の気配が全く感じられない。


その時だった。

『……チリチリと、蠅がうるさいと思えば。人間か』


「ッ!?」

部屋の奥。


分厚い岩壁から、突如として「金色の液体」がドクン、ドクンと脈打ちながら滲み出してきた。


スライムのように床に落ちた黄金の液体は、自らの意思を持つように蠢き、瞬く間に四本足の巨大な獣のシルエットを形成していく。


【ランク:測定不能イレギュラー

【名称:特異知性体・黄金の幻馬アウルム・ナイトメア


現れたのは、全身が純金でできたような、美しくも禍々しい「馬」のモンスターだった。


その黄金の瞳が、理知的な光を宿して湊たちを見下ろしている。


「また、人語を話す知性体か……! 結衣、バフを頼む!」


「任せてください! ――【完全均衡の祝福パーフェクト・バランス】!!」


湊の全ステータスが5倍へと跳ね上がる。

新宿の九尾も、渋谷の魔将も打ち破った、絶対的な力の解放。


「消えろッ!!」


湊は黄金の幻馬の懐へ瞬時に潜り込み、必殺の『浸透破』をその横腹に叩き込んだ。


――バシャァァァッ!!

「なっ……!?」


だが、湊の拳から伝わってきたのは、肉や骨を砕く感触ではなかった。


拳が直撃した瞬間、幻馬の胴体が「金色の液体」へと変化し、湊の打撃を、水面に石を投げ込んだようにスルーと受け流してしまったのだ。


『愚かな。物理の暴力など、我が流体には届かぬ』

「しまっ――」


すり抜けた液体の胴体が即座に硬化し、幻馬の強烈な後ろ蹴りが湊の腹部にクリーンヒットする。

ドゴォォン! と凄まじい衝撃音が響き、湊は砲弾のように吹き飛ばされて壁に激突した。


「天谷さんッ!!」

「ぐっ……なんちゅう、嫌らしい身体してやがる……」


湊は咳き込みながら立ち上がった。


どれだけステータスが高くとも、「物理攻撃そのものを無効化・分散させる」スライムのような流体装甲が相手では、打撃特化の湊は絶望的に相性が悪い。


『脆弱な生き物よ。我が黄金の光に溶け、新たな瘴気の苗床となるがいい』


幻馬が前足を高く掲げると、その角からまばゆい金色の光線レーザーがシャワーのように降り注いできた。


それは熱や衝撃を持つ物理的な魔法ではなく、もっと異質で、精神を直接侵食するような不気味な光だった。


「『光盾イージス』ッ!」


結衣が即座に盾を展開するが、金色の光はその防御魔法すらもすり抜け、幻影のように湊の身体を包み込んだ。


『警告:未知の特殊攻撃を被弾しました』

『システムに重大な干渉を検知』

「な、なんだ……!?」


湊は自分の身体を確かめるが、HPは減っておらず、痛みもない。

だが、視界の端に固定しているステータスウインドウを見た瞬間、湊の血の気が完全に引いた。


【ステータス(天谷 湊)】

【HP】10,000 / 10,000

【MP】196,160 / 196,160

【筋力】100,000

【俊敏】132,800

【体力】50,000

【知力】53,040

【魔力】200,000

【保留ポイント】189,000

【状態異常:???】

【※警告:すべてのステータス数値がシャッフルおよびロックされました】


「数値が……ロックされた……?」


湊が恐る恐る保留ポイントをスワイプしようとするが、ウインドウは暗くグレーアウトし、ピクリとも動かない。


さらに最悪なことに、結衣のバフの恩恵もスゥッと消え去っていく。


「あ、天谷さん!? バフが、弾かれちゃいます! 発動条件は揃っているはずなのに……!」


結衣がパニックを起こして何度も杖を振るが、魔法は一向に発動しない。


おそらく『状態異常:???』の影響。


それは、バフによる数値の向上とさらには湊の最大の武器である『手動割当マニュアル』による数値変更を完全に封じるという、前代未聞のステータスへの干渉だった。また最も最悪なことはステータス数値がシャッフルされたことにより近接戦の湊にはあまり使用用途のない【MP】と【魔力】へ大幅に数値を割り振られてしまったことだ。


『さあ。ステータスのバフという鎧を剥がれた貴様に、何ができる?』


黄金の幻馬が、液体のように姿を揺らめかせながら、嘲笑うかのようにゆっくりと距離を詰めてくる。


バフも、ステータス変更も封じられた。


物理攻撃すら通用しない最強の特異知性体を前に、湊は最大の窮地に立たされるのだった。


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