未曾有の災厄(2)
日本最大にして最深の魔境、新宿ダンジョン『バビロンの塔』。
普段であれば厳重な入山審査が行われるその巨大なゲートは、完全に破壊され、無限に湧き出すモンスターの群れによって埋め尽くされていた。
「結衣、振り落とされるなよ!」
「はいっ、しっかり掴まってます!」
結衣を背中に背負い、俺は弾丸のように新宿ダンジョンの下り階段を駆け抜けていた。
【筋力】150,000 → 750,000
【俊敏】220,000 → 1,100,000
結衣の『完全均衡の祝福』による全ステータス5倍化。
俊敏110万の絶速は、通路を埋め尽くすモンスターの群れを「ただ通り抜ける際の風圧」だけで木っ端微塵に粉砕していく。
各階層のボスモンスターすら一瞥もせず、ただ最短距離で床と天井をブチ抜きながら、俺たちは一直線に雪乃を探して降下を続けていた。
* * *
同刻。新宿ダンジョン第24階層。
「……はぁっ、はぁっ……!」
血に濡れた華奢な手が、冷たい遺跡の壁を滑り落ちる。
『銀閃』と謳われた柊雪乃は、薄暗い茂みの影に身を潜めながら、荒い息を吐き出していた。
(ここまで、ですか……)
パレードの中心部を叩く決死の特攻部隊として、この階層に突入したのは数時間前。
だが、そこに待ち受けていたのは想定を遥かに超える地獄だった。見たこともない異常なモンスターの群れに部隊は瞬く間に分断され、他のSランク探索者たちも次々と血の海に沈んでいった。
雪乃の双剣はすでにボロボロに刃こぼれし、自慢の俊敏15万を誇る両脚も、度重なるダメージと疲労で鉛のように重い。
『ギシャァァァァッ!』
『グルルォォォォ……!』
茂みのすぐ外を、数百体のモンスターが徘徊している。
彼女の気配に気づいた数体のオーガが、下卑た笑い声を上げながら茂みを囲むように近づいてきた。
(……逃げ切れない。最後に、一矢報いて……)
雪乃は残された僅かなマナを振り絞り、死を覚悟して双剣を構えようとした。
脳裏に浮かんだのは、自分を「最強の相棒だ」と言ってくれた、黒衣の青年の顔。
(湊……ごめんなさい。私、やっぱり一人じゃ……)
オーガの巨大な棍棒が、雪乃の頭上へと振り下ろされた。
彼女がそっと目を閉じた、その瞬間。
――ドゴォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!
上層の分厚い天井が跡形もなく吹き飛び、何かがとてつもない速度で雪乃の目の前に墜落した。
着地の衝撃波だけで、雪乃を囲んでいたオーガたちがチリのように四散し、階層を埋め尽くしていた数百のモンスターが暴風に吹き飛ばされていく。
「――遅くなりました、雪乃さん」
濛々と舞い上がる粉塵の中から、静かな、けれど絶対的な安心感を伴う声が響いた。
「え……?」
雪乃が呆然と目を開ける。
そこには、赤熱する『崩星の籠手』を構え、かつてないほどの圧倒的なオーラ――あの獅子神咆牙すら凌駕するような、七星クラスの重圧を纏った湊が立っていた。
「湊……? 本当に、湊なの……?」
「怪我は? ……ひどい傷だ。結衣、回復を頼む」
「はいっ、天谷さん!」
湊の背中から、小柄な少女がひょっこりと顔を出した。
結衣はすぐさま雪乃のそばに駆け寄ると、持参していた最上級の回復ポーションを振りかけ、手際よく傷の応急処置を始める。
「良かった……命に別状はありません。すぐに痛みが引きますからね」
「あ、ありがとう……。湊、この方は……?」
雪乃は痛みを堪えながら、自分を治療する見知らぬ少女と、湊を交互に見つめた。
獅子神に叩き潰され、自暴自棄になって自分から離れていったはずの湊が、なぜこれほどの絶大な力を纏って、さらには見知らぬ少女を連れているのか。
「ああ。俺の新しいパーティメンバーの、結衣だ。彼女のサポートのおかげで、俺はここまで来れた」
「……新しい、パーティメンバー」
雪乃の氷のような瞳の奥で、ピクリと何かが跳ねた。
「初めまして、柊雪乃さん。天谷さんの『今の』相棒をやらせてもらっています、結衣です」
結衣はニコッと人懐っこい笑顔を向けたが、その言葉の端々には、どことなく「正妻」のような確固たる自信が滲んでいた。
「……『今の』? ふふっ、なるほど」
雪乃もまた、双剣を杖代わりにして立ち上がり、冷ややかな、それでいて挑戦的な笑みを浮かべた。
「でも、湊のあのデタラメなステータスの動きについていくのは、並の探索者じゃ骨が折れると思いますけど? 私なんて、動きを合わせるだけで命懸けだったんですから」
「ご心配なく。私と天谷さんは、ステータスの隅々まで『完璧な均衡』で繋がってますから。息はピッタリなんですよ」
「……へえ」
「……ふふっ」
薄暗いダンジョンの底で、絶対零度のブリザードと、温厚そうに見えて一歩も引かない春の嵐が、不可視の火花を散らして激突している。
板挟みになって冷や汗を流していた湊が、突如として顔色を変え、二人を庇うように前に出た。
直後。
パリパリパリッ……! と、空気が焦げるような異音がこの階層全体に響き渡った。
「なんだ、この異常な気配は……!」
遺跡の奥深く。
パレードの中心から現れたのは、これまでのモンスターとは一線を画す、神々しさすら感じさせる存在だった。
純白の体毛に、九つに分かれた長大な尾。その全身からは、青白い『雷』がバチバチと迸り、周囲の空間そのものを歪ませている。
「『白面の九尾』……! おそらくこのモンスターがこのモンスターパレードの元凶……ッ!」
雪乃が血の気を引いた声で叫ぶ。
『コォォォォォォ……ッ』
九尾の狐が、冷酷な黄金の瞳で湊たちを見下ろした。
その直後、九尾の姿が「消えた」。
「速――ッ!」
バフ状態にある湊の動体視力ですら、それは辛うじて捉えられる『雷の残像』でしかなかった。
九尾は瞬きする間に湊の背後へと回り込み、雷を纏った前足で無慈悲な一撃を振り下ろした。
「結衣、シールド!!」
「『光盾』ッ!!」
結衣が即座に六角形の光の盾を展開する。
だが、九尾の雷撃が盾に触れた瞬間――湊の背筋に、かつてない悪寒が走った。
バリバリバリッ!!
「なっ……!?」
結衣の魔法の盾が物理的に破壊されたのではない。
雷のエネルギーが盾を「透過」し、湊の体内へ流し込まれたのだ。
ダメージ自体はたいしたことはない。しかし、その雷の真の恐ろしさは別のところにあった。
『ピピッ……警告。マナの配列に異常を検知』
『ステータスの一部が強制的にシャッフルされました』
「嘘だろ……!?」
湊が空中のウインドウを見ると、綺麗に『0』で揃えられていたはずの全ステータスの一の位が、雷の干渉によって「1」や「7」といったデタラメな数字に狂わされていた。
パァァァンッ!!
条件を満たせなくなった結衣の『完全均衡の祝福』が、ガラスのように砕け散り、湊のステータスが元の数値へと急降下する。
「バフが……解除された!?」
結衣が絶望的な声を上げる。
『コォォォ……』
九尾の狐が、嘲笑うかのように喉を鳴らした。
物理的な破壊ではなく、バフスキルの根幹を狂わせる『ステータス撹乱の雷』。
それは、結衣のバフを前提とした手動割当の戦術に対する、最悪にして最凶のアンチスキルだった。
【ステータス(天谷 湊)】
【HP】100,000 / 100,000
【MP】6,000 / 6,000
【筋力】150,000
【俊敏】220,000
【体力】50,000
【知力】53,043 (狂化中)
【魔力】6,005 (狂化中)
【保留ポイント】1,000,000




