下層の蹂躙と、完成された双刃
ダンジョン管理庁の長距離転送陣を抜け、湊と雪乃は再び『黒淵の顎』の第18階層
――未踏破領域である下層の入り口へと降り立った。
一ヶ月ぶりに嗅ぐ、瘴気が混じった重く澱んだ空気。
だが、今の湊にとってその空気は、息苦しさよりも不思議なほどの高揚感をもたらしていた。
「……やはり、地上とはマナの濃度がまるで違いますね」
「ええ。ここから先は、真の魔境です。ここから先は予想外の理不尽が、いくらでも転がっていますよ」
雪乃が静かに双剣を抜く。その氷のような刃が、薄暗い遺跡の底で青白く輝いた。
湊もまた、両腕の『崩星の籠手』を軽く打ち合わせる。
「大丈夫です。雪乃さんに徹底的にしごかれたおかげで、身体の動かし方は完全に頭に入っています。俺のステータスがどこまで通用するか、試してみましょう」
二人は警戒を緩めることなく、第18階層の巨大な遺跡広場を抜け、さらに地下へと続く大階段を下っていく。
第19階層。そこは、これまでの人工的な遺跡エリアとは打って変わり、赤黒い溶岩が川のように流れる灼熱の洞窟地帯だった。
ただ立っているだけで体力を奪われるような異常な熱気だが、湊の【体力30,000】の強靭な肉体と、『幻影の黒布』の環境適応能力の前には、少し蒸し暑いサウナ程度の感覚でしかなかった。
「来ますよ、湊。……群れです」
雪乃の鋭い声と共に、溶岩の川の対岸から、カサカサというおぞましい駆動音が響き渡った。
岩陰から這い出してきたのは、体長5メートルを超える巨大な百足の群れだった。赤熱した鋼鉄のような甲殻に覆われ、無数の鋭い足が岩肌を削りながら、こちらへ向かって猛スピードで殺到してくる。
「『アビス・センチピード』……下層のB級モンスターです。あんなものが数十匹の群れで動くなんて、通常ならSランクパーティでも苦戦する規模の群れですよ!」
雪乃の表情に僅かな緊張が走る。
だが、湊は全く動じていなかった。知力を5万3千までポイントを振り、演算能力を飛躍的に引き上げることで、迫り来る数十匹の魔物の軌道と速度を、極めて冷静に分析し切っていたからだ。
「雪乃さん、俺が正面を塞ぎます。遊撃をお願いできますか?」
「……了解しました。あなたの背中は、私が守ります」
次の瞬間、雪乃の姿が紫電となって消えた。
俊敏15万の絶速。先頭を走っていた三匹のアビス・センチピードの視覚器官が、何が起きたか理解する間もなく斬り裂かれ、体液を撒き散らしながらのたうち回る。
『ギチチチチィィィッ!!』
仲間の血の匂いに狂乱した群れが、一斉に雪乃へ襲いかかろうとした、その時。
――ドォォォォォンッ!!
溶岩の川を飛び越え、群れのど真ん中に漆黒の重戦車が落下した。
湊だ。
「こっちだ、虫ケラ共」
その着地の衝撃だけで周囲の岩盤が吹き飛び、アビス・センチピードたちのヘイト(敵意)が完全に湊へと向く。
四方八方から、岩すらも容易く噛み砕く猛毒の牙が湊めがけて殺到した。
一ヶ月前の湊であれば、俊敏12万の速度を持て余し、無闇に飛び退いて壁に激突するか、力任せに腕を振り回して自爆していただろう。
だが、今の湊は違う。
「――遅い」
極限まで圧縮されたスローモーションの世界の中で、湊は最小限の体重移動だけでその凶刃のすべてを紙一重で躱していく。
右脚を軸にして独楽のように反転し、迫り来る巨大な百足の『甲殻の継ぎ目』へ向けて、無駄のない完璧なフォームで右拳を突き出した。
【筋力150,000】の絶撃。
だが、それは周囲の空間ごと消し飛ばすような粗暴な一撃ではない。威力を一点に極限まで集中させた、針の穴を通すような精密な『浸透破』だ。
バヅンッ!!
鈍い破裂音と共に、打撃を受けたアビス・センチピードの甲殻は無傷のまま、内部の臓器だけが完全にドロドロに粉砕され、絶命して崩れ落ちた。
周囲の環境を無闇に破壊せず、敵の命だけを正確に刈り取る。これこそが、雪乃との地獄の特訓で身につけた「ステータスの完全制御」だった。
「すばらしい……!」
群れの外側から遊撃していた雪乃が、感嘆の声を漏らす。
彼女の眼から見ても、湊の動きには一切の無駄がなかった。俊敏12万のステップで群れを翻弄し、筋力15万の威力を一ミリのロスもなく敵の急所へ叩き込んでいる。
『対象の生命活動停止を確認』
『保留ポイントに【5,000】が追加されました』
ウインドウの通知音が鳴り止まない。
だが、群れの数はまだ二十匹以上残っている。
アビス・センチピードたちは本能で「この男は危険だ」と悟ったのか、突然動きを止め、口内に赤黒い炎を圧縮し始めた。
溶岩の熱を取り込んだ、広範囲の灼熱ブレス。それを一斉に放たれれば、いくら湊でも無傷では済まない。
「天谷さん、下がって! 一斉掃射が来ます!」
雪乃が叫ぶが、湊は退かなかった。
むしろ、獰猛な笑みを浮かべて、ウインドウを空中に展開した。
「雪乃さん。俺たちの『最適解』。、見せてやりましょう!」
湊の指先が、空中で光のパネルを弾く。
目前に迫るブレスの脅威に対し、湊が選択したのは・・・
彼は、自身の最強の武器である【筋力】を一時的に削り、それをすべて【俊敏】へと注ぎ込んだのだ。
【筋力】150,000 → 120,000 (-30,000)
【俊敏】120,000 → 150,000 (+30,000)
(筋力12万でも、こいつらの装甲を抜くには十分すぎる。なら、今は――雪乃さんと完全にリンクする!)
「――行きますよ、雪乃さん!」
湊のステータスが書き換わった瞬間。
雪乃の【俊敏15万】と、湊の【俊敏15万】。二つの「絶速」が、灼熱の洞窟の中で完全に同調した。
『ギシャァァァァッ!!』
二十匹の魔物が一斉に灼熱のブレスを吐き出す。
だが、その炎が着弾した場所に、すでに二人の姿はなかった。
「なっ……!?」
群れの外側にいた雪乃でさえ、驚愕に目を見開いた。
自分の最高速度と、寸分違わぬ速度で隣を並走する漆黒の影。一ヶ月間、ずっと自分の背中を追いかけてきた不器用な青年が、今、自分と完全に同じ景色を見ている。
「ここからは、二人の時間です!」
湊の声が、雪乃の鼓膜に直接響くような錯覚。
二つの紫電が、炎を吐き出し終えて硬直した魔物の群れへと交差するように突撃した。
雪乃の双剣が魔物の視覚と関節を的確に斬り裂き、体勢を崩した魔物の死角から、湊の籠手が甲殻の隙間を容赦なく打ち抜いていく。
互いの思考を読み取っているかのような、流れるような連携。
雪乃が隙を作り、湊が命を刈り取る。湊が魔物の注意を引きつけ、雪乃が背後から致命傷を与える。
そこには、言葉による連携など必要なかった。
『同じ速度』という絶対的な共有感覚が、二人の動きを一つの完璧な暴風へと昇華させていた。
――わずか、十秒。
それだけの時間で、下層を支配するはずだったB級魔物『アビス・センチピード』の群れは、一匹残らず光の粒子となって洞窟に溶けていった。
『対象の生命活動停止を確認』
『保留ポイントに【120,000】が追加されました』
静寂が戻った溶岩の洞窟で、二人はゆっくりと足を止めた。
「……信じられません。戦闘中にステータスを書き換えて、私の最高速度にアジャスト(適応)してくるなんて」
雪乃は双剣を鞘に収めながら、信じられないものを見るような目で湊を見つめた。
戦闘の最中に肉体の質量や速度が急激に変化すれば、並の人間なら感覚が狂って自滅する。それを、あの一瞬で完全に制御して見せたのだ。
「特訓のおかげですよ。知力と神経のリンクが上手くいっている証拠です。それに……」
湊はステータスを元の【筋力15万・俊敏12万】へと戻しながら、充実感に満ちた笑みを浮かべた。
「雪乃さんと同じ速度で走るのは、すごく気持ち良かったですから」
その無邪気な言葉に、雪乃は一瞬だけ目を丸くした後――ふっ、と小さく吹き出した。
これまでの張り詰めた氷のような雰囲気が解け、年相応の柔らかな微笑みがこぼれる。
「……本当に、規格外の相棒ですね。私一人では、あいつらを全滅させるのには時間がかかり、傷だらけになっていたでしょう。それを、たったの十秒で無傷で終わらせてしまうなんて」
「俺一人でも、あんなに綺麗に倒すことはできませんでしたよ。雪乃さんが作ってくれた道があったからです」
湊は『崩星の籠手』についた灰を払い落とし、さらに奥へと続く溶岩の道を見据えた。
「保留ポイントも、一気に跳ね上がりました。この調子で狩り続ければ、七大ギルドのトップが持つ『数百万』のステータスに追いつくのも、そう遠い話じゃなさそうです」
「ええ。私たちの歩みは、ここからが本当のスタートです。……行きましょう、湊」
氷の剣士と、絶対の最適解を持つ重戦車。
互いの欠落を完璧に補い合う最強のパーティは、日本の探索者たちが未だ足を踏み入れたことのない下層の奥深くへと、確かな足跡を刻みながら進んでいく。
その先に、システムを凌駕した七人の「狂人」たちが待つ、深層の絶望が口を開けているとも知らずに。
【ステータス】
【名前】天谷 湊
【年齢】20
【HP】30,000 / 30,000
【MP】6,000 / 6,000
【筋力】150,000
【俊敏】120,000
【体力】30,000
【知力】53,035
【魔力】6,000
【保留ポイント】85,000




