救って
「朱里……あれ、本当なのか?」
その声は、信じたくないという感情を含んだ疑問だった。だから、朱里は正直に話したのだ。
父親のこと、妹のこと、母親のこと、自分のこと。
その話を聞いたときの彼の表情がやけに印象的だったことを覚えている。
なにか、理解をするような、同じ境遇の人間を見つけて同情するような、そんな目をしていて。
もしかしたら、この人なら自分を救ってくれるかも、なんて淡い期待を胸の奥で抱いてしまって。
それでも現実は非情だった。朱里が願ったところで母親からの虐待は終わらないし、学校での疎外感は少しも軽くならない。高校生でこれだ。
躊躇や相手の気持を察することをしない中学生など、イジメへの罪悪感など微塵も存在しないだろう。
だから、いじめられて全身傷だらけで泥だらけになった妹を見た時に察してしまったのだ。
――期待なんて、するだけ無駄だと。
「おねえちゃん……」
「……大丈夫。大丈夫だから。きっと、だい、じょうぶ、だから」
妹の手当をして、抱きしめて。
自分と妹に言い聞かせる。
今は悲しいことばかりが起こるが、それでも、いつか状況は良くなるはずだと、我慢して、耐えて、その日を待ち焦がれて。
だが、
――どうやら世界は朱里を嫌いなようだ。
■■■
「……なに、これ」
異変にすぐに気付けたのは、朱里が常日頃ポストに入っている手紙を確認していたからだろう。
普段は広告やチラシなど、どうでもいい手紙ばかり入っているが、その日は違かった。
本当の意味での手紙が、そこに、朱里の家のポストに入っていたのだ。
「――」
何故か、冷や汗がした。
寒気の止まらない手で、封をされた手紙を開く。
五感の全て、そして朱里の第六感すら『何処かまずい』と警鐘を鳴らし続けていたが、それでも朱里は手紙を開き、中身を見てしまった。――おぞましい、中身を。
『朝、6時。朝食を作る君は可愛くて素敵だよ。その後、いじめられることも気にせず7時に家を出て学校に向かう勇気も憧れる。でも汚れる君は可哀想だと思うんだ。君は優しくて可憐なのに、アイツらはそれをわかっていないんだ。家事を頑張る君も、勉強する君も、親を世話する君も、アイツらは知らないからあんなことができるんだ』
書いてるときに汗でも掻いたのか、少しシワのある紙に、到底理解しがたい文章の羅列が綴ってある。
――明らかに、普段の朱里をつけていないと出ない言葉が幾つも出てきた。
そして、一番見られたくないところすら、あっさりと見られていて。
『君の一番の理解者はここにいる。どうか知っておくれ。君が好きなんだ』
完全に、日常生活を監視されている。
――一体、神様はどこまで自分を嫌いなのか。
それ以来、夜道や外に出かけるとき、必ずと行っていいほど背後に人の気配を感じ始めた。
毎日。毎日、毎日。毎日、毎日、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日、朱里は2つの恐怖に晒され続ける。
いじめられる恐怖と、見られている恐怖で、朱里は折れてしまった。
――妹よりも先に折れてしまった自分が情けなく、それ以来頻繁に自傷行為をするようになっていた。自分を傷つけて、ただひたすらに自分の価値を下げたくて。
――人には見られたくないから、いつも長袖長ズボンを着ているようになった。
「……」
怖い。
外に出るのが怖い。人と会うことが怖い。会話が怖い。相手の挙動が怖い。母親が怖い。いつ何処を見られているかわからなくて怖い。ストーカーの人が怖い。
怖いものだらけで、動けなくて。
恐ろしいものしかない世界で、朱里は勇気を持てなくなった。
妹は通っているのに、情けない姉は母親に『家事を全て引き受けるから』と、おだてて耳障りの良いことばかりを言って不登校となってしまったのだ。
そうやって、ゆっくり、ゆっくりと終わりが近づいてくる。そんな不確定な予感が迫るくるある日のことだった。
■■■
その日は雨で、アパートの屋根に跳ねる雨音が五月蠅いくらいのどしゃぶりだった。
妹は学校。母親はパチンコへと向かって、家には朱里ただ一人。何もせず、やる気も出ず、蹲っていた朱里の耳朶を、小さい音がか弱く、しかし確かに打った。
「――?」
音は段々と大きくなる。そしてそれに連れて、なにか聞こえる程度の認識だった音の正体が段々と鮮明になっていった。
サイレンだ。救急車の、サイレンの音が聞こえる。
朱里は、外から聞こえるそのサイレンの音に耳を傾けていたのだ。
何か、物凄く嫌な予感がした。
救急車の音が遠くから聞こえてくる。
その音は近づいて、そして離れていく――はずが。
「なんでこの近くで」
サイレンの甲高い音が朱里の家の近くで動きを止めたのだ。すっかり不登校となっていた朱里は、外で何が起こったのか見る気にすらならなかった。
だが、
「青年1人重体。トラックの運転手は――」
まさか。まさかそんな事があるはずない。
そんな、これ以上状況が悪くなるなど、あるはずが、ないのだ。
ないはずだ。ないはずなのだ。
なのにどうして――、
「……耳鳴りが止まらないの」
ずっと、心の奥底に不安が燻っている。
だから、朱里は勇気を出して外に出たのだ。
そして、玄関を出てすぐに朱里は見た。
――見てしまった。体はぐちゃぐちゃで、辺りには血の池ができている。一目で出血過多とわかる、なんと思慮深い姿なのか。
轢かれた衝撃と飛び跳ねてもんどりうった衝撃で受けた傷が混ざり合い、見るも無惨な彼がそこにいた。
「……ぅ」
咄嗟に目を逸らして道に吐瀉物を吐き出す。
体中が雨に打たれるが、最早頭はそんなことを認識していなかった。
警鐘、耳鳴り、おおよそ体の異常を知らせる本能的な事象が全て発動する中、唯一朱里の脳だけは状況の理解を拒んでいた。
「……いや」
口の端から思わず溢れた声は、短く、しかし簡単に朱里の感情を表していた。
――嫌だ。嫌だ。認めたくない。理解したくない。わかりたくない。
嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――
「嫌――!!」
その場にうずくまる朱里の顔をもし他者が見ていたら、なんと哀れな姿かと同情しただろう。それほど朱里は絶望をして、現実逃避をして、それでも受け止めきれない現実を耐えることができないでいる、泣いて鼻水を垂らして無様で情けない顔をしていたのだ。
助けてほしかった。救ってほしかった。小学生の時のように、颯爽と現れてあたかも簡単で当たり前のことかのように、もう一度自分を救い出してほしかった。だが、何度願えどそれは叶わず、いつしか願いは諦めとなり、諦念となり、それでもどこかで期待していたのだ。いつまでも、朱里の心は叫んでいた。助けほしいと、そう大声で叫んでいたのだ。
そう、願って叫んでいたのに、
「なんで……貴方が……」
死んでしまうのか。何故世界は朱里に不条理ばかり押し付けてくるのか。何故、何故、何故――、
そこからのことはよく覚えていない。
ただ、朦朧とする意識の中一日が終わり、今まで通り振る舞おうとして、失敗に失敗を重ねて、早朝から母に殴られ蹴られて癇癪を起こされて家から追い出されたことは、ぼーっとする頭でなんとなくは理解していた。そして朱里は世界の輪郭すら曖昧のまま朝の空気を味わって散歩らしきなにかをしていた。
――もういっそ、自殺すれば彼の同じところは飛べるのではなかろうか。
そんな考えをぼんやりと脳内で転がす中、朱里は見た。
それは紛れもなく、死んだはずの彼だった。
早朝の空気が漂う中、人気のない道に佇む彼を見たのだ。そして、彼はどこか以前の元気を取り戻しており、朱里と共に行動してくれた。
彼と行動するのは楽しかった。いつぶりかもわからぬからかいの言葉を飛ばして、飛ばされて、ムキになってまた言い返して。
そして気持ち悪いストーカーから逃げて朱里の手を引く彼の背中を見たとき、もう数えるのはやめた期待の風が、朱里の胸中には吹き荒れていた。
数えるのをやめたのは救われる予感のする回数が少なかったからではない。むしろ、救われないとわかっていても、朱里は些細なことにでも期待をすることをやめられなかったのだ。
きっと、この人に『好き』とでも言われたら、それが嘘でも救われた気持ちになってしまう。
演じて、嘘をついて、虚偽で塗り固めて。
だが朱里は期待していたのだ。
――そして、その期待が叶わぬこともどこか理解していた。
そうして、屋上で自分の手を掴み、こちらを救おうとする目を見た時に、思ったのだ。
期待してはいけない。どうせ救えないのだから、この手は振り解かなければならない、と。
「……どうやって私を止めるの?」
だから朱里には救われる気はあっても、救われる気はなかった。その矛盾に気づけぬほどに、朱里はもう疲れていたのだ。




