川泥の強制冷却
どれほどの時間が経ったのだろうか。
意識の混濁を引き裂くように、頭蓋の奥で猛烈な拍動が始まっていた。
「……つ、あ……」
こめかみが、焼けつくように熱い。
BMIの接続端子が、物理的な熱を持って皮膚の内側から脳を焼き焦がそうとしている。いつもならシステムが自動で検出するはずの熱暴走警告すら、完全にシャットダウンした網膜には表示されない。
ただ、頭蓋骨のすぐ裏側に、沸騰した熱湯が溜まっているような地獄の疼きだけがあった。
耳鳴り《ノイズ》すら、もう聞こえない。
無音。いや、そうではない。
ザー、と、頭上で降り続く「本物の雨」が、冷たいアスファルトや泥を叩く不均一な音が、フィルターを失った鼓膜に直接突き刺さる。
ビチャリ、と。
すぐ耳元で、水を踏む、重く不快な足音が聞こえた。
——生身の、人間の足音。
泥の中に這いつくばったままの佐登は、首を動かすことすらできなかった。ただ、かすむ両目の端で、ひび割れた長靴を履いた何者かの足元が揺れるのを見た。
「……生きてるな、市役所の小僧」
ひどく低く、煤がこびりついたような濁った声。
返事をする余裕はなかった。佐登はこめかみを押さえ、指先で自分の皮膚を掻きむしった。熱い。このままでは、脳の神経細胞が物理的に凝固してしまう。
「デバイスが熱を吹きやがったか。パッチの重ね塗りに脳ミソが耐えかねたんだろ。そのままじゃ焼き切れるぞ」
男の影が、佐登の隣でしゃがみ込んだ。
次の瞬間、無造作に伸ばされた手が、佐登のこめかみに触れた。
「ひ……ッ!?」
佐登は悲鳴にも似た息を吐いた。
その手のひらは、不気味なほど冷たく、そして強烈な「川泥の生臭さ」をまとっていた。
ぐ、と。
男は、容赦なく佐登の頭部を泥の中に押しつけるようにして、すくい上げた湿った土の塊を、過熱した接続端子の周辺に直接なすりつけた。
「あ、つ……つめ、たい、何、を……!」
暴力的なまでの「冷たさ」が、熱を帯びた皮膚に激突した。
粘土質の泥は、冷え切った地下水の温度を保っていた。それが、佐登の脳波を異常過熱させていた金属端子に密着する。
ジュ、と、錯覚のような水蒸気の音が脳裏に響いた。
泥に含まれる、細かい砂粒のジャリジャリとした不快な感触。
ちぎれた雑草の腐葉土。
それらが、生のデリケートな皮膚と、金属の境界に容赦なく食い込んでいく。
不衛生極まりない、生身の暴力。
だが、その不快さと同時に、脳を包んでいた最悪の熱が、泥の質量によって急速に奪われていくのが分かった。物理的な「熱交換」が、彼の脳を強制的に冷却していく。
「動くな。泥が一番の冷却材だ。コンクリートの地下を流れる川底の泥はな、お前らの生ぬるい電子パッチよりよっぽど役に立つ」
男の手が、なおも佐登の首筋を固定していた。
その手の質量は、圧倒的だった。
V-Assistが描画していた、あの和久井課長の「完璧に調律された、温もりも摩擦もない手」とは根本から違う。
ゴツゴツと節くれ立った関節。
手のひらに刻まれた、タコと生々しい硬い皮膚の摩擦。
何より、指先からドク、ドクと伝わってくる、生々しい他人の脈動。
皮膚と皮膚が擦れ合い、生きた質量が自分を組み伏せているという事実が、佐登の全身を支配した。
デバイスの超高解像度ホログラムをどれだけ重ねても、決して再現できなかった「触覚の質量」が、彼を泥の底へと繋ぎ止めている。
「……ハァ、ハァ……」
次第に、こめかみの激痛が引いていった。
熱が泥に吸い込まれ、視界の白濁がゆっくりと消えていく。
「立てるか」
男は手を離し、佐登の襟首を掴んで強引に引き起こした。
佐登はふらつきながらも、泥だらけの膝で冷たいアスファルトを踏みしめた。
雨に濡れた顔を拭うと、目の前には、白髪混じりの無精髭を蓄えた、油の匂いのする老人が立っていた。作業着は泥と錆で斑に汚れ、首には煤けたタオルを巻いている。
「俺は荒木だ」
老人は、こめかみに泥をこびりつかせた佐登を、侮蔑とも憐憫ともつかない昏い瞳で見下ろした。
「市役所のぬくぬくした繭の中から、よくまあ、こんなドブ底まで落ちてきたもんだな」
その言葉の通り、佐登の足元には、赤黒い工業排水がどろりと渦巻いていた。
彼の首筋に食い込んだ泥は、冷たく、そしてひどく重かった。
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