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摩耗の閾値  作者: 端野ゼロ


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4/8

化学排水の湿地帯

午後四時三十分。


本庁舎と別棟を繋ぐ、高架連絡通路。



キャットウォークでの異常な「錆びた鉄の蛇」の目撃から、佐登の脳波は異常な興奮状態を引きずっていた。


こめかみのBMI接続端子は、熱湯を注がれたように熱いままだ。一刻も早く執務室に戻り、専用の冷却ジェルを当てるか、システムを再起動しなければならない。



「……ハァ、ハァ……」



自身の荒い呼吸が、ノイズキャンセリングの隙間から妙に生々しく聞こえる。


視界の端に表示される心拍数は、限界値に近い『142』を指して赤く点滅していた。



その時だった。


足元から、文字通り「世界が引きちぎれる」ような、鋭い地響きが走った。



——ドンッ!



それはシステムのエラー音ではない。


本庁舎の基礎、あるいはこの高架橋を支えるコンクリート支柱のどこかが、地中の歪みに耐えかねて物理的にズレた衝撃だった。



衝撃に反応し、V-Assistが視覚を補正しようと暴走する。


激しいスパーク。佐登の歩む通路の床が、波打つように歪んだ。



「しまっ——」



物理的な揺れによって、佐登の身体が大きく傾ぐ。


だが、彼の脳が知覚している「床の座標」は、過熱したデバイスの描画遅延によってコンマ数秒遅れていた。


実際には崩落を防ぐための「伸縮継手」の金属プレートが跳ね上がり、大きな段差が生じている。しかし、佐登の網膜には、ただフラットで美しいグレーの床シートが映り続けていた。



一瞬、虚空を歩いているような、奇妙な無重力感に囚われる。


次の瞬間、彼の右足は虚しく空を切り、コンクリートの角に激しく引っかかった。



「あっ、うわ、ああっ!」



バランスを失い、身体が重力に従って傾斜を滑り落ちる。


高架橋から地上へと続く、非常用のアナログ階段。パッチのレンダリングが追いつかず、世界がモザイク状に崩壊していく。



ガツン、と。


後頭部に、耐え難い打撃音が響いた。



『——警告。BMIデバイスの物理的損傷を検知。強制シャット……ダ……』



極上のソプラノボイスが、ノイズ混じりのダミ声に歪んで途切れる。


網膜の裏側で、目も眩むような原色のスパークが幾重にも爆ぜた。


次の瞬間、視界は完全な「デジタル・スノー(砂嵐)」に塗り潰され、佐登の意識は深い闇の底へと真っ逆さまに突き落とされた。





……冷たい。



どのくらいの時間が経ったのだろうか。


意識の混濁の中から、最初に戻ってきたのは「触覚」だった。



ジワジワと、生の皮膚を冷え切らせていく液体の感覚。


続いて、暴力的な「臭い」が、彼のフィルターを失った鼻腔を直接突き刺した。



「ウッ、ゲホッ……!」



佐登は激しく咽せ返りながら、泥の中に顔を突っ込むようにして這いつくばった。


南国のビーチのココナッツ香は、もうどこにもない。


鼻腔を占拠しているのは、強烈なアンモニアと、機械油、そして腐った有機物が放つドブの刺激臭。あまりの悪臭に、胃液が喉元までせり上がる。



「……何、だ、これ……」



佐登は泥にまみれた右手を上げ、こめかみに触れた。


BMIデバイスは完全に冷え切り、鉄の沈黙を保っている。


システムによる補正が全て剥ぎ取られた世界。



彼の網膜が捉えたのは、灰色の雲に覆われた、薄暗い夕暮れの景色だった。


雨が降っている。


冷たい雨粒が、佐登のむき出しの肌に、容赦ない針のように突き刺さる。



彼が倒れていたのは、市役所の地図上では「緑地化予定の予備地」とされている場所だった。


だが、現実は違った。


そこは、未処理の化学排水が淀む、不気味な赤黒い泥水の湿地帯。


コンクリートの割れ目から染み出した工業廃水が油膜を広げ、立ち入り禁止のフェンスが赤錆びてひしゃげたまま放置されている。



デジタルの衣を剥がされた佐登は、ただの一匹の濡れネズミのようになり、その毒々しい泥水の中に塗れていた。


冷たい。震えが止まらない。これが、彼が必死に目を背け続けてきた、この街の剥き出しの「質量」だった。

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