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摩耗の閾値  作者: 端野ゼロ


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2/3

沈黙の庁舎と漏水データ

午前八時五十分。


佐登が市役所本庁舎の重厚な自動ドアをくぐった瞬間、世界は再び「調律」された。



ロビーの空気は、爽やかなミントとユーカリのフェイク香で満たされている。


実際には、築五十年を超える本庁舎の地下から漂う、コンクリートの微細な粉塵と湿った土の臭いがあるはずだった。だが、佐登の脳内に直接作用する『V-Assist』の環境パッチは、それらの「雑音」を完全にシャットアウトし、まるで建てられたばかりのインテリジェント・ビルのような清潔な錯覚を維持している。



大理石に見えるロビーの床を歩く。


視界の端では、出勤する職員たちの頭上に、それぞれの所属、役職、そして本日の「同期稼働率」を示すパーセンテージが青いホログラムで淡く浮かび上がっていた。



「おはよう、佐登」



背後からかけられた声に、佐登は振り返った。


そこに立っていたのは、都市経営課の課長であり、佐登の直属の上司である和久井だった。



和久井の姿は、いつ見ても「完璧」だった。


仕立ての良いダークグレーのスマートスーツには、一筋のシワも、一粒の塵もない。彼の歩調は一秒間にちょうど二歩。メトロノームのように正確なリズムで、大理石の床に靴音を響かせる。


何より異様なのは、その声調だった。高低差が完璧にコントロールされたソプラノが、聴覚神経に直接、心地よい摩擦を伴って滑り込んでくる。



「今日の全体朝礼だが、私のスピーチデータを君の共有領域に転送しておいた。同期の準備はいいかね」


「はい、和久井課長。プロファイルへの適用は完了しています」



佐登が頷くと、和久井はわずかに口角を上げた。その筋肉の動きすら、BMIの最適化プログラムによって「信頼感を与える角度」へと一分の狂いもなく補正されているのだと、佐登は知っていた。



午前九時、全体朝礼が始まる。


広い会議室に集まった職員たちの視界には、現実の古びたホワイトボードではなく、鮮やかな三次元グラフが投影されていた。



和久井が演台に立つ。


彼が口を開くと同時に、全職員の脳内で最適化された音声アシストがハモるように響いた。



「——我々の都市は、緩やかな持続可能の軌道に乗っています。今期のアセット管理データによれば、基幹インフラの健全度は九八パーセントを維持。市民の生活満足度は……」



淀みのない、流れるような言葉。


和久井のスピーチは、システムの一部として冷徹に完成されていた。彼の話すテンポに合わせて、視界の三次元グラフが心地よい効果音とともに伸縮する。それは美しく、説得力に満ちた「加工された真実」だった。


職員たちは、ただその完璧なリズムに身を委ね、思考を停止していればよかった。



だが、その完璧な調和を引き裂くように、会議室の後方から「不快な足音」が近づいてきた。



引きずるような歩き方。


何より、V-Assistの視覚パッチを激しく透過してくる、異質な「質量」をまとった人影。



同期の真壁だった。



佐登は思わず顔をしかめた。


真壁の制服の袖口には、泥と赤錆の汚れが、パッチの補正を突き破ってくっきりと浮き出ている。彼女は自身のBMIデバイスをオフにしているか、あるいは極限まで感度を下げているに違いなかった。その表情には、デジタル・ドープの幸福な輝きはなく、生々しい疲労と睡眠不足の隈が刻まれている。



「……和久井課長」



真壁の声は、ざらついていた。美化システムを通さない、生身の、かすれた声。


和久井はスピーチを一切止めず、ただ視線だけをわずかに彼女へと向けた。



「地下第四ブロックの、配水主管のデータです」



真壁が強引に共有スペースへアップロードしたデータが、佐登たちの視界に強制割り込み《インタラプト》をかけた。


それは、和久井の美しい三次元グラフを汚染する、グロテスクな現実だった。



画面に映し出されたのは、激しい錆によって茶色く膨張し、内側からボロボロに剥落しかけている鋳鉄管の断面図。至る所から、濁った錆水が文字通り「噴き出している」様子が、生々しい数値とともに赤く点滅している。



『配管肉厚減少率:七四%(限界超過)』


『予測漏水量:日量一二〇トン』



「地下では、鉄が悲鳴を上げています。いつ大規模な地盤沈下や破裂が起きてもおかしくありません。課長、今すぐパッチでの美化を止め、物理的な予算を投じて配管を交換すべきです!」



真壁の必死の訴えが、静まり返った会議室に響く。


しかし、和久井は眉一つ動かさなかった。彼はスピーチの最後のフレーズを優雅に締めくくると、真壁のアップロードした赤い警告ウィンドウに、指先一つ触れることなく視線だけでアクセスした。



「真壁君」



和久井の声は、どこまでも穏やかで、それゆえに酷く冷たかった。



「そのデータは、V-Assistの広域流体シミュレーションによって、すでに『許容誤差内』として処理されている。隣接する第三ブロックの排出パッチを微調整すれば、市民の視覚および嗅覚への影響はゼロだ」


「視覚だけの問題じゃありません! 物理的に水が漏れ、地盤が削られているんです!」


「行政の仕事は、市民の幸福を維持することだ」



和久井は、真壁の提出したデータを一瞬で「アーカイブ(非表示)」のフォルダへとドラッグ&ドロップした。赤い警告は、一瞬で視界から消え去り、再び美しいエメラルドグリーンの都市グラフが蘇る。



「見えない傷をわざわざ暴き立て、市民に余計な不安を与えることこそ、最大の怠慢だよ。このデータは私の方で『適切に処理』しておく。君は自分の担当エリアのパッチ維持に戻りなさい」



実質的な、黙殺だった。


真壁は拳をきつく握りしめ、錆に汚れた指先を震わせたが、それ以上は言葉にならなかった。彼女の視界に映る世界が、どれほど孤独で、冷たいものであるか。佐登は彼女から目を背け、自らの快適な「調律された世界」に深く潜り込んだ。



朝礼が終わり、執務室に戻ると、今度は別の質量が佐登の元へ歩み寄ってきた。



古谷だった。


六十代の再雇用職員。彼はBMIデバイスの接続端子があるこめかみを、大げさに指で押さえながら、わざとらしい足取りで佐登のデスクに近づいてきた。



「あー、佐登くん。悪いんだがね……」



古谷の口から漏れる、朝食のネギの臭いと加齢臭が混ざり合った、リアルな呼気が鼻を突く。V-Assistが急いでそれを「ラベンダーの香り」に書き換えようとするが、距離が近すぎて処理が追いつかない。



「さっきから偏頭痛がひどくてね。おまけに最近、老眼のせいでデバイスの光が網膜にチカチカ刺さるんだ。どうにもパッチの細かい調整作業が辛くて……」


「……またですか」



佐登は心の中でため息をついた。


古谷が差し出してきた端末の画面には、彼が担当する「第七プラント・有毒ガス検知センサー」のログが表示されていた。


異常値を示す黄色のシグナルが点滅している。古谷のやるべき仕事は、この異常シグナルを「一時的な測定エラー」として覆い隠すための、視覚フィルタ(美化パッチ)の書き換え作業だった。



明らかに、ただの責任逃れだ。


もし後でセンサーの異常が本物のガス漏れだったと発覚した時、「作業を行ったのは自分ではない」と言い逃れをするために、若手の佐登に作業を丸投げしようとしているのだ。



「頼むよ、若い君なら一瞬だろ? 老い先短い年寄りを助けると思ってさ」



古谷は、薄くなった髪を掻きむしりながら、引き攣った笑みを浮かべる。その卑屈な態度と、生身の肉体の「衰え」という生々しい言い訳に、佐登は激しい嫌悪感を覚えた。


だが、ここで拒絶すれば、和久井の評価に響くかもしれない。この完璧に調律された市役所というゆりかごの中で生き残るためには、波風を立てないことが最優先だ。



「わかりました。やっておきます」


「おお、助かるよ! やっぱりこれからの街は君たち若者のものだからね!」



古谷はあからさまにホッとした表情を浮かべ、自分のデスクへと戻っていった。彼の頭上にある「同期稼働率」は、わずか三五パーセントを示して虚しく明滅している。



佐登は、自分のデスクに表示された「有毒ガスセンサー」のデータに手を伸ばした。


指先を動かし、黄色く点滅するエラーログを、美しい「正常」の青いパッチで塗り潰していく。



これで、すべては元通り。


不快なエラーも、老人の卑屈な嘘も、真壁の訴えた赤い錆も、すべてはデジタルの光の中に優雅に溶けて消える。



——だが、作業を終えた佐登の耳の奥で。


今朝よりも少しだけ大きく、しつこい、あの「キィィィン」という高周波の耳鳴りが、じわりと疼くように響き続けていた。

ご覧いただきありがとうございます。


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