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摩耗の閾値  作者: 端野ゼロ


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黄金の海 —— デジタル・ドープ

じっとりとした湿気が、這うように皮膚を侵食していく。



安物の化繊の毛布を押し退けた瞬間、鼻腔を突いたのは、逃げ場を失った部屋の隅から立ち上る、どんよりとしたカビの臭いだった。


木造アパートの薄い壁一枚を隔てた隣室から、ドスドスと鈍い足音が響いてくる。壁の内部で結露した水滴が、ぽつり、ぽつりと柱を伝って落ちる、あの不快な微振動が床板を通して背中に伝わる。



生身リアルの朝は、いつも最悪だ。



自分の肉体という、重くて、不潔で、制御の利かない粘土細工の中に閉じ込められている感覚。佐登はかすれた呼吸を吐き出しながら、こめかみの皮膚に指先を這わせた。


そこには、埋め込み型ブレイン・マシン・インターフェース——『BMI』の接続端子が、硬い金属の異物感をもって佇んでいる。



「……起動」



掠れた声を絞り出す。


それが、一日の始まりを告げる神聖な儀式だった。



耳の奥、あるいは脳の髄から、凄まじい高周波の音が立ち上る。


——キィィィィィィィィン、と。


鼓膜を直接針で引っ掻くような、鋭利な耳鳴り。BMIデバイスの起動に伴う、お決まりの初期過負荷だ。


普通の人間なら顔をしかめるであろうその不快な圧迫感を、佐登はむしろ、深く息を吸い込みながら恍惚と共に受け入れていた。



(これでいい……)



この耳鳴りは、世界とデジタルが同期している証。


自分が不完全な生身の肉体を脱ぎ捨て、洗練された記号の海へとダイブしていくための、幸福な摩擦音なのだから。



次の瞬間、網膜の裏側で視覚野が爆発した。



『——Good morning, SATO. Welcome to V-Assist.』



鼓膜を通さず、聴覚神経に直接滑り込んでくる極上のソプラノボイス。


同時に、カビ臭い四畳半の壁が、天井が、安物のパイプベッドが、まるで水で薄めた絵の具のように一瞬にして解けていく。



波音が聞こえた。


サラサラと指の隙間をこぼれ落ちるような、きめ細かな白砂のざわめき。


網膜に焼き付けられたのは、どこまでも澄み渡るエメラルドグリーンの波頭と、黄金の太陽の光を浴びてきらめく南国のプライベートビーチだった。


V-Assistが感覚変調パッチを適用し、部屋のジメジメとした空気の冷たさは「心地よい潮風の涼感」に、カビの臭いは「ほのかに香るココナッツと柑橘のフェイク香」へと瞬時に変換される。



「はぁ……」



佐登はベッドの上に身体を起こし、深く、深く、その偽りの空気を肺に満たした。


黄金の海。システムが提供する、完璧に調律された幸福の繭。


ここには、自分を脅かす不快なノイズは一切存在しない。



だが、視界が完全にデジタル・ドープの光で満たされるその寸前。


まぶたの裏に、一瞬だけ、忌まわしい残像がよぎった。



——無機質な、白い壁。


——鼻を突く、逃げ場のない消毒液の悪臭。


——高熱にうなされ、軋むパイプベッドの上で一人震えていた、幼少期の隔離病棟の記憶。



生身の身体は、いつだって自分を裏切る。熱を出し、膿を流し、不潔に汚れ、孤独にのたうち回る。


幼い頃に思い知らされたあの「肉体の脆弱さ」という絶望。


そこから逃げるために、自分はこのBMIを脳に挿し、人生のすべてをこの青い光のシステムへ委ねたのだ。


あの白い壁の監獄に比べれば、システムの提示する黄金の海は、どれほど美しく、慈悲深い聖域であることか。



「データロード、完了。環境プロファイルを最適化中」



佐登の呟きに呼応するように、視界の端へ、整然としたフォントの文字が次々と浮かび上がっては消えていく。



『本日の心拍数:68。安定』


『血中酸素濃度:99%。正常』


『推奨栄養摂取メニュー:プロテインブレンド・ハイドロジェンパック。本日分のデリバリーはまもなくアパートのボックスに到着します』


『スケジュール:午前9時、市役所本庁舎にて全体朝礼』



視野を邪魔しない絶妙な透過度で、完璧に管理されたデータが流れる。


耳元では、佐登の脳波パターンに合わせてリアルタイムに作曲される、アルゴリズム製のアンビエント・ミュージックが絶え間なく流れ続けている。


余計な外部の音——隣室の不快な足音や、外を走る旧式トラックの排気音——は、すべて完璧にノイズキャンセリングされ、清らかな波音と心地よい電子音の調和の中に溶けて消えた。



これこそが、完成された生だ。


生身の肉体の気配を極限まで拒絶し、あらゆる感覚をシステムに委託する。


その優雅な停滞の中でこそ、若者たちは、この老朽化し、緩やかに死にゆく地方都市の質量から目を背けることができた。



佐登は、ベッドの脇に置かれた「本物の」使い捨てのプラスチック製栄養ゼリーパックを手に取った。


V-Assistの視覚パッチを通せば、それは「高級ホテルで提供されるクリスタルのグラスに入った冷製スープ」に見える。


味覚変換器がノズルを通じて舌の味蕾を刺激し、ぬるくて不味い合成ゼリーに、フレッシュな冷製コンソメの風味を重ね合わせる。



喉を通る冷たい感覚。


脳は騙され、胃袋は満たされる。



「今日も、完璧な一日の始まりだ」



佐登は満足げに目を細めた。


この眩い「黄金の海」の皮膚を一枚剥がせば、その下に、錆びつき、朽ち果てて、今にも崩壊を始めようとしている現実の「質量」が息を潜めていることなど、この時の彼は知る由もなかった。

ご覧いただきありがとうございます。


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