おとぎ話の種、机の上の整理
1. 束の間の帰郷
雲を眼下に望むほど険しい岩山の頂。
数ヶ月に及ぶ看取りの旅を終え、レムリアは自身の拠点である小さな木造の小屋へと帰ってきた。
「ふぅ……。やっぱり、ここは少し寒いわね」
レムリアは旅の外套を脱ぎ、凍えた手でお気に入りのマグカップに白湯を注いだ。
テラスの窓からは、どこまでも広がる静寂の世界が見える。人間もドワーフも消え去った大地は、ただただ静かに陽の光を浴びていた。
彼女は、旅の途中で回収してきた「アレンの結晶」たちを作業机の上に並べた。
人間の街のランタン、ドワーフのストーブ。どれもレムリアが手入れをしたおかげで、
内部の六角形の青い光は、まるで眠るように穏やかな「チチチ……」という鈴の音を響かせている。
「アレン。今日もあなたの子供たちを連れて帰ってきたわよ」
主を失った車椅子に向かって微笑むレムリア。その顔は、1500年の孤独を背負う大人ではなく、ただいまを告げる一人の少女のものだった。
2. 人間たちのおとぎ話
道具たちを棚へ仕舞うため、レムリアはアレンが遺した古い手帳やノートを整理し始めた。
パラパラとページをめくる指が、ある手書きの地図のところで止まる。
それは、この岩山の麓にかつてあった「人間族の街」の職人が書き残した古い記録だった。
『世界が終わる時、岩山のどこかにある「岩の大木」に実がなり、生き残った人々を救うであろう』
レムリアは、ふっと薄く笑った。
「人間たちって、本当に最後までおめでたいおとぎ話を信じていたのね」
それは、麓の街で密かに語り継がれていた救済の伝承だった。
世界が少しずつ衰退していく恐怖の中で、人間たちが心の拠り所にしていた、淡い希望の言葉。1500年を生き、世界の命が等しく老衰していく様を特等席で見届けてきたレムリアにとっては、失笑してしまうような絵空事だった。
確かに、この岩山の中腹には、入り口近くに綺麗な湧き水が出ている大きな洞窟があった。アレンが生きていた頃からそこにあったが、レムリアは「ただの暗い穴ぐら」としか思っておらず、興味が湧かなかったために一度も奥を調査したことはなかった。
アレンですら、その洞窟については何も言わなかった。だから、ただの迷信だと切り捨てていたのだ。
3. 雨の日の記憶
手帳の余白には、アレンの独特の丸っこい文字で、何かを計算したような数式がいくつも書き殴られていた。
それを見た瞬間、レムリアの脳裏に、遠い雨の日の記憶が鮮やかによみがえる。
――何百年も前の、激しい嵐の夜だった。
雷鳴が轟き、小屋の窓を雨が激しく叩く中、アレンは車椅子に揺られながら、狂ったようにノートに数式を書き連ねていた。指先をインクで真っ黒にしながら、何かに急かされるように。
『アレン、もう寝なさいよ。そんなに無理したら、また体調を崩すわ』
レムリアが呆れたように毛布を彼の肩にかけると、アレンは振り返り、ひどく真剣な、けれどどこか悲しげな目で彼女を見つめた。
『レムリア。僕たちの作った道具はね、この世界を永遠に救うことはできない。いつか魔力が尽きれば、みんな止まってしまうんだ。……でもね、もし僕たちの記憶や、この世界の生きた証を【別の世界】へ繋ぐための歯車になれるとしたら、僕は職人として、これ以上の幸せはないと思うんだよ』
『何を言っているの? 難しくて分からないわ』
レムリアが小首を傾げると、アレンはいつもの困ったような、愛おしそうな笑顔に戻って、彼女の頭を優しく撫でた。
『いいんだ。君は、僕の作った道具を、ただ愛して、いつか看取ってくれれば。それだけでいい』
4. 通り過ぎる足音
「……別の世界へ、繋ぐ歯車?」
現在に戻ったレムリアは、アレンの遺した数式と、人間たちのおとぎ話の記述を交互に見つめた。
アレンが死の直前まで計算していた「何か」と、人間たちが信じていた「岩の大木」。
それが、頭の中でほんの一瞬だけ、奇妙なノイズのように繋がった気がした。
レムリアは作業机を片付けると、旅の外套をもう一度羽織り、小屋の扉を開けた。
次の旅へ向かう道すがら、彼女はいつもなら気に留めない、岩山の中腹にあるあの洞窟の前に、ふと足を止めた。
入り口からは、透き通った湧き水が静かに流れ出ている。その奥は真っ検で、冷たい風が吹き抜けていた。
アレンの本物のペンダントをかざしてみるが、内部への反応はない。ポケットに入れた、あの灰色の「自分の作った大失敗作」も、冷たく沈黙したままだ。
レムリアは暗闇の奥をじっと見つめ、それから、ふいっと顔を背けた。
「……やっぱり、ただの迷信よね。バカバカしいわ」
大人びた、いつもの冷徹な声。
彼女にとっての最優先は、今も世界のどこかで寂しく眠っているアレンの道具たちを看取ること。まだ見ぬおとぎ話の洞窟よりも、現実に残された「彼の足跡」の方が、今の彼女には何百倍も大切だった。
「行くわよ、アレン。まだあなたの子たちが、外で待っているんだから」
レムリアは一度も後ろを振り返ることなく、洞窟の前を通り過ぎ、静かに岩山を降りていった。




