第七十一話 小さな友
扉が、静かに開いた。
アオは、聞こえた声をすぐには信じられなかった。
ミケの声。
でも、ここにいるはずがない。
ここはシェイラの、しかも施設の奥だ。
そこに、ミケがいる。
そんなはずがない。
扉の向こうは、以前の測定室に似ていた。
何もない空間。
中央に、立方体が一つ浮かんでいる。
ただし、以前の小部屋とは違う。部屋そのものが、ずっと広い。
壁も床も白く、余計な装置は見えない。
中央付近には、何人かの人影がある。
その中に、ソウマの姿もあった。
そして、その近くに。
小さな猫が座っている。
目が合った。
ミケ。
トウカが中の者へ声をかけるより早く、ミケが動いた。
椅子の上から飛び降り、そのまま一直線にこちらへ駆けてくる。
カゲツは動かなかった。
ソウマも止めない。
「久しぶりニャ、アオ!」
ミケは勢いのまま、アオの胸元へ飛び込んできた。
アオは反射的に受け止める。
久しぶりの重さ。
久しぶりの毛並み。
久しぶりの匂い。
胸の奥に張りついていたものが、ほんの少しだけほどけた。
「ミケ……」
名前を呼ぶだけで、声がうまく続かなかった。
ミケはアオの腕の中で身をよじり、首元を見つける。
「ミケが決めたネックレス、ちゃんと使ってるニャ。えらいニャ」
アオは、すぐには返せなかった。
嬉しい。
安心した。
でも、ここがどういう場所なのかも分かっている。
混乱しているのに、手だけは自然にミケの背を撫でていた。指先が毛並みに沈む。つい、顔をしっぽにうずめる。
ミケは得意げに尻尾を揺らした。
「……本当に、ミケなんだ」
「本物ニャ。偽物のミケなんていないニャ」
いつもの調子だった。
その調子が、余計に胸へ来た。
ソウマが近づいてくる。
「ミケは、私がベイラから連れてきました」
アオは顔を上げた。ソウマの声音は穏やかだった。
「トウカ殿の指示を受け、守護長家とも調整した上で、正式な手続きを踏んでいます」
そこで一度、短く間を置く。
「ミケ不在の間も、ベイラ側に空白が出ないよう調整済みです」
アオは、その言葉の重さを完全には掴めなかった。
ただ、ミケをここへ連れてくることが、軽い話ではなかったのだと分かった。
トウカが、アオの腕の中のミケを見る。
「ミケか。常長殿は息災か」
ミケはアオにしがみついたまま、顔だけをそちらへ向けた。
「みんな元気ニャ。でも、アオに会いたがってたニャ。ミケも心配してたニャ」
「……相変わらずだな」
トウカはわずかに息を吐いた。
「もう少し、この場に合わせた振る舞いをしてくれてもよいと思うが」
「久しぶりに会ったんだから仕方ないニャ」
ミケは悪びれない。
トウカも、それ以上は言わなかった。
「碧殿。ミケがいて驚いたろう」
「……はい」
アオは頷く。
驚いた、どころではなかった。
トウカは続ける。
「少しばかり、貴殿を驚かせる形になったことは認める。だが、ミケを呼んだのは再会のためだけではない」
トウカの視線がミケへ落ちる。
「こやつには、重要な役割がある」
ミケが胸を張った。
「そうニャ。ミケ、すごいニャ」
「話の腰を折るな」
短く制され、ミケは少しだけ口を閉じた。
ただし、尻尾は得意げに揺れている。
トウカはアオへ向き直った。
「五大英雄の寓話は知っているな」
「はい」
アオはミケを抱えたまま答える。
「過去の英雄が、五柱の神獣と、名もなき小さな友と旅をして、影を封じ込める話ですよね」
「そうだ」
トウカは頷いた。
「その“小さな友”とは、ケットシーのことだ」
アオは、腕の中のミケを見た。
ミケは得意げに鼻を鳴らす。
「ミケ達、実はすごいニャ」
トウカは構わず続ける。
「英雄も、神獣も、守護獣も、力を持つだけでは足りない」
「百の力を、百として安全に扱うには、支える者が要る」
「それが、小さな友――ケットシーの役目だ」
アオはすぐには言葉を返せなかった。
ミケが、伝承の小さな友。
ずっと、家族だと思っていた。
いや、それは今も変わらない。
腕の中にいるのは、いつものミケだ。パンを狙って、サラと一緒に騒いで、変なところで得意げになって、当たり前みたいに家にいたミケだ。
伝承の中にいる存在だとは思っていなかった。
トウカは説明を続ける。
「英雄には、独特の反応痕が現れる」
「魔法の目を開くには、その反応痕を起こす必要がある」
アオは無意識に背中へ意識を向けた。
ミケが口を挟む。
「アオにも、背中に二つ、あるニャ」
「……え?」
「でも、今は前より濃くなってるはずニャ」
ミケも、反応痕が鍵となることを知っている。
いつから。
なぜ。
疑問は浮かぶ。けれど、今はそれを一つずつ掴む余裕がなかった。
何を聞けばいいのかも、まだ分からない。
トウカがミケを見る。
「だから、話の腰を折るなと言っている」
「でも大事な話ニャ」
「分かっている。だから今、話している」
ミケは少しだけ耳を伏せた。
それでも、アオの腕から離れようとはしない。
トウカはアオへ向き直った。
「ミケが、貴殿の目を開かせる」
アオはミケを見る。
ミケは、今度は笑っていなかった。
いつもの丸い目が、少し細くなっている。ふざけている時の顔ではない。
「不安も大きかろう」
トウカは言う。
「だから、目を開かせるケットシーは、こちらで見知らぬ個体を用意するのではなく、貴殿がよく知る相手にした」
「慣れるまで、ミケは帰らない」
「ベイラ側にも対策は入れてある。安心して挑め」
アオはミケを見下ろす。
「ミケ」
「任せるニャ、アオ。大船に乗ってくれニャ」
いつもの軽さだった。
でも、声の奥に少しだけ真面目さがある。
アオは息を吸った。
「……どうあれ、久しぶりに会えて、僕は嬉しい」
少しだけ言葉を探す。
「来てくれてありがとう」
ミケの尻尾が大きく揺れた。
「アオも、ここ何年か見ないうちに大きくなったニャ。もうサラより大きいニャ」
アオは少しだけ詰まった。
その言葉で、ベイラの時間が胸に戻ってくる。
家の廊下。
食卓。
サラの声。
ミケがパンを狙って、母さんに叱られていた朝。
ここが何の部屋なのかを思い出して、ミケを撫でるアオの手が少し止まった。
けれど、ミケは離れなかった。
カゲツがアオの横へ来る。
「碧。こちらの椅子に座れ」
部屋の中央近くに、椅子が用意されていた。
「上着は脱いでおけ」
アオが一瞬だけカゲツを見る。
カゲツは淡々と説明する。
「反応痕の位置を直接確認する。一回目は服越しには行わない」
「ミケが接続位置を誤らないようにするためだ。医療班も変化を見る」
ミケが横から付け加える。
「慣れたら服の上からでもできるニャ」
「今回は慣れていない」
カゲツが短く返す。
ミケは「そうニャ」と素直に頷いた。
アオも頷く。
ミケを一度床に下ろし、上着を脱ぎ、椅子に座った。
背中が空気に触れて、少し冷える。
カゲツが続ける。
「気分が悪くなったら手を上げろ。声が出なければ、こちらで止める」
トウカがミケを見る。
「ミケ。反応が上がりすぎたら離れろ」
ミケは真面目に頷いた。
「分かったニャ」
ミケが、アオの背後へ回った。
さっきまで腕の中で騒いでいた気配が、ふっと薄くなる。
アオは振り向けない。
背中の方で、ミケがじっとこちらを見ている気配がする。
部屋の空気が、少しずつ静かになっていく。
ソウマも、カゲツも、トウカも何も言わない。
中央に浮かぶ立方体だけが、淡く光を返していた。
ミケの気配が、近づく。
息をする音さえ、小さく聞こえた。
「行くニャ」
次の瞬間、背中に軽い衝撃が来た。
ミケが跳んだのだと、少し遅れて分かる。
いつものように、首に前足を回してしがみついてくる。
けれど、今回はそれだけではない。
後ろ足がアオの背中に広がり、ミケの腹がぴたりと背中に触れた。
動きだけ見れば、ふざけているようにも見えるかもしれない。
でも、背中越しに伝わる気配は違った。
ミケは、真剣だった。
「ニャ……」
短い声が漏れる。
次の瞬間、身体の芯が冷えた。
冷たい、というより、身体の内側が急に温度を奪われたようだった。
息が止まりかける。
背中から入った冷えが、一瞬で奥へ落ちる。
その直後、薄い何かが張ったように感覚が変わった。
空気が遠くなる。
「息をしろ」
カゲツの声が聞こえた。
アオは浅く息を吸う。
胸が少しだけ痛い。
その瞬間、視界がずれた。
何かに、無理やり焦点を合わせられた。
見えている。
でも、何を見ているのか分からない。
中央に浮かぶ立方体の輪郭が、二重に見える。
いや、輪郭だけではない。
空気の中に、薄い筋のようなものがある。
それが光なのか、風なのか、力なのか分からない。
ただ、そこに何かが通っている。
目を細めても変わらない。
むしろ、余計に気持ち悪くなる。
「もう一個ニャ」
ミケの声が聞こえた。
ミケはアオの背中を器用に移動する。
前足を首にかけたまま、後ろ足の位置を変え、反対側へ身体をずらす。
そして、もう一つの場所へ腹を押し当てた。
「ニャにゃ……!」
今度は、一つ目より強かった。
一瞬、身体が凍ったような錯覚があった。
視界が大きく揺れた。
部屋の白が歪む。
立方体が近くにも遠くにも見える。
そこにいるはずのソウマの輪郭が、別の何かをまとっているように見えた。
カゲツの周囲にも、薄い揺らぎがある。
トウカは、まっすぐ立っている。
けれど、その姿の外側に、何かの線が重なっているようだった。
何だ、これ。
アオは反射的に目を閉じた。
立方体の揺らぎも、白い部屋の歪みも、見えなくなる。
それなのに、楽にならない。
見えてはいない。
だが、何かが頭の奥へ流れ込んでくる。
さっきまで目で拾っていたものの残りが、まだ処理され続けているようだった。
ミケが背中から離れた。
「今回はこれぐらいで勘弁してやるニャ」
いつもの軽口もアオにはうまく届かない。
身体が傾きかける。
すぐに、カゲツの手が肩を支えた。
「碧。聞こえるか」
声は近い。
聞こえている。
でも、返事をする余裕がない。
「アオ様、ゆっくり息をしてください」
ソウマの声もする。
医療班の誰かが、短く数値を確認している。
トウカの声も聞こえる。
だが、意味までは掴めない。
気持ち悪い。
目を開けていられない。
閉じても楽にならない。
何が、流れ込んでいるんだ。
アオはそう思った。
その問いだけが、頭の奥でぐらぐ




