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現実世界で世界を救った俺、異世界で魔王に転生したみたいだけどなんやかんや世界を救うはめになりそう ~世界を救う魔王の英雄プロトコル~  作者: 足本 弘
第五章 目覚め

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第七十二話 魔法の目

 あれから、一週間を少し過ぎた。

 

 ミケがこの目を開いてから、俺の視界は普通の視界ではなくなっている。


 熱の流れが見える。

 風の動きが見える。

 壁や床の奥を通る何かが、薄い線のように引っかかる。

 人の周りには、その人自身とは別の揺らぎが重なって見える。


 見ようとしていないものまで、勝手に入ってくる。


 最初は一日で閉じた。次は三日か四日続いた。

 今は、三度目だ。


 少しずつ、慣れてはきた。


 ただ座っているだけで気持ち悪くなることは、もうない。

 見えているからといって、全部を追わなければいいのだと、頭では分かってきた。


 それでも、生活はまだ壊れている。


「アオ、ごはん食べられるニャ?」


「……食べる」


 皿の上には、いつものパンがあった。

 焼き色も、形も、手で持てる大きさも分かっている。


 俺はパンを掴む。


 指の位置は間違っていない。硬さも、重さも、ちゃんとある。


 そこまでは普通だった。

 けれど、口元へ運ぼうとした瞬間、距離がずれた。


 パンは見えている。

 自分の手も見えている。

 口の位置も分かっている。


 なのに、間にある空間が、薄く伸びたり縮んだりする。

 パンの熱が揺れて、手の周りの流れと重なって、どこまでがパンで、どこからが空気なのか、一瞬だけ分からなくなる。


 歯に当たるはずだったパンの端が、唇の横に触れた。


「……」


 俺は手を止めた。

 ミケが椅子の上で尻尾を小さく丸める。


「ごめんニャ」


「ミケが謝ることじゃない」


 そう言って、もう一度パンを見た。


 今度は、パンだけを見る。


 熱の流れを追わない。

 手の周りの揺らぎを見ない。


 ただ、形だけを見る。

 そう決めてから動かすと、今度は口に入った。


 少しだけ噛む。

 味は変わらない。

 食べるというだけのことに、こんなに意識を使う。


 歩く時も、似たことが起きる。

 床の奥を流れる線が見える。壁の中の動きが、視界の端で揺れる。

 止まっていれば見える。動こうとすると、半拍遅れる。


「アオ」


 足元から、ミケの声がした。

 俺は壁に手をついたまま、そちらを見る。


「大丈夫ニャ?」


「……前よりは」


 嘘ではない。

 前よりは、ましだ。


 でも、大丈夫かと聞かれると、すぐに頷けない。


 ミケは俺の目を開かせることができる。

 たぶん、どれくらい深く開くかも、感覚では分かっている。

 でも、開いた後、俺が何をどう見てしまうかまではミケにも決められない。


 どれだけ入ってくるか。

 何が邪魔になるか。

 どうすれば普通に動けるか。

 そこは、俺の方で覚えるしかない。


 ミケは少しだけ耳を伏せていた。


 俺はしゃがもうとして、途中で床の流れに目を取られた。膝をつく場所が一瞬遅れる。

 それでも何とか腰を落として、ミケの頭に手を置いた。


「ミケのせいじゃない」


「でも、ミケが開いたニャ」


「うん。でも、開いてよかったんだと思う」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 楽ではない。


 正直、閉じてほしい時の方が多い。


 それでも、この目は必要なものなのだと、どこかで分かっている。


 見えすぎているだけだ。


 まだ、合わせ方が分からないだけだ。


 扉が鳴った。


 控えめな音ではない。必要な分だけ、短く叩かれる。


「碧。入るぞ」


「はい」


 カゲツが部屋へ入ってきた。

 いつものように無駄な表情はない。

 俺の顔を見て、次に足元のミケを見て、それから室内を一度だけ確認する。


「立てるか」


「はい」


 俺は立ち上がろうとした。

 それなのに、床の奥を流れるものに意識が引っかかって、動き出しが遅れた。


 半拍。


 たぶん、それくらいだった。

 けれど、カゲツは見逃さなかった。


「視えているのに、動きが遅れているな」


「……はい」


「今日は動かす訓練ではない」


 カゲツは短く告げる。


「見る訓練だ」


「見る訓練……」


「ついて来い。ミケもだ」


「はい」


「行くニャ」


 ミケが先に床へ降りる。


 俺は、ミケの尻尾を追わないようにした。揺れるものを追うと、余計に視界が引っ張られる。


 部屋を出る。廊下の壁は白い。


 白いはずなのに、その奥で細い流れが動いている。

 俺は流れを追わないように、一歩ずつ足を置いた。


 訓練室の前で、カゲツが足を止める。


 扉が開いた。


 中は、見慣れた白い空間だった。

 中央に、立方体が置かれている。


 何度も使ってきた計測器だ。

 魔法の反応を受け止め、数値として返す。

 俺に分かっていたのは、それくらいだった。


 でも今は違う。


 立方体の周囲だけ、妙に静かだった。


 部屋の中には、いくつもの流れがある。

 空気の動き。

 壁の奥を走るもの。

 床から立ち上がる薄い反応。


 その全部が、立方体の近くへ行くと、すっと均される。

 消えるのではない。

 暴れないように押さえられている。

 流れてくるものを受け止めて、外へ漏らさない場所。


 そんなふうに見えた。


 部屋の端には、記録担当の職員が一人立っていた。


 手元の端末を確認している。

 カゲツが俺を見る。


「今日は観測のみだ。神具には触れない」


「はい」


「反応は中央の立方体が受ける。出力も演示用に抑える」


 カゲツはそこで、記録担当へ目を向けた。

 記録担当が短く頷く。


「準備できています」


「始める」


 カゲツは腰の側から、小さな器具を取り出した。


 金属のようにも、石のようにも見える。

 形は単純なのに、視界に入れた瞬間、そこだけ周りの流れと噛み合わない感じがした。


「これから使うのは、不可視の火球を発生させる神具だ」


 カゲツの声が、訓練室に落ちる。


「普通の目には見えない。発動した瞬間も、炎そのものは見えない」


 俺は立方体を見る。

 その周りの静けさが、さっきよりはっきりして見えた。


 ミケは部屋の隅に座っている。

 いつものように軽口を挟むこともなく、黙ってこちらを見ていた。


 カゲツが神具を構えた。


 大きな動きはない。指先が器具の表面に触れた。

 普通の目なら、そこで終わりだったと思う。


 何も起きていない。


 炎もない。

 光もない。

 音も、ほとんどない。


 けれど、部屋の端にある測定表示だけが動いた。

 数字が跳ねる。


 上がって、揺れて、止まる。


 五二。


 記録担当の職員が、その数値を確認する。


 でも、俺にはそれだけではなかった。

 火は見えない。

 何かが燃え上がるところも見えない。


 それなのに、立方体の周りにあった流れが、発動の直前に変わった。

 逃げていたものが、そこだけ逃げられなくなる。

 散っていたものが、急に行き場を失う。


 集まる、というより、押し込められていく。

 立方体に触れる前に、周囲の流れが歪んだ。


 見えない火球がそこにあるのだと、言葉で理解するより先に、目の奥が拾っていた。


「何が見えた」


 カゲツが問う。

 俺はすぐに答えようとして、少しだけ言葉に詰まった。


 見えたものを、そのまま言えばいい。

 でも、見えたものには名前がない。


 火ではない。

 光でもない。

 揺らぎと言えば近い気もする。でも、それだけでは足りない。


「火は、見えません」


 まず、そう言った。

 カゲツは遮らない。


「でも、立方体に触れる前に、周りの流れが変わりました」


 自分の見たままを、少しずつ探る。


「逃げていたものが、そこだけ逃げられなくなったみたいに見えました」


 言い終えたあと、部屋が少しだけ静かになった。


 カゲツは一瞬だけ黙った後、記録担当へ視線を向ける。


「今の発言を残せ」


「承知しました」


 記録担当が端末を操作する音が、小さく響く。


 ただ、俺の言葉が記録に残された。

 それが逆に、自分が何か普通ではないものを見たのだと分からせた。


 部屋の隅にいたミケが、ゆっくりこちらへ歩いてきた。


 いつもなら、跳ねるように近づいてくる。

 肩に飛び乗ったり、膝を狙ったり、何か言いながら尻尾を立てたりする。


 でも今は違った。


 足音を立てないように、というより、俺を揺らさないように近づいてくる。

 膝に乗るわけでも、肩へ飛ぶわけでもない。

 ただ、俺の足元に来て、そこに座った。


 俺はその動きが、いつもよりほんの少し丁寧だと気づいた。

 ミケは立方体を見て、それから俺を見る。


「アオには、見えるニャ」


 俺は何も返せなかった。


 見える。

 たしかに、見える。

 でも、見えているものをどう扱えばいいのかは、まだ分からない。


 カゲツが神具を下ろした。


「今のお前に必要なのは、強く使うことではない」


 声は変わらない。

 訓練の続きとして、ただ必要なことを告げている。


「まず、見る対象を選べ」


「……選ぶ」


「見えたもの全部に反応するな」


 言われた瞬間、さっきのパンを思い出した。


 熱の流れ。

 手の周りの揺らぎ。


 空気との境目。

 全部を見て、全部に引っかかって、口に運べなかった。


 歩く時も同じだ。


 床の奥を見て、壁の流れを見て、足を置く場所を迷った。

 見えたもの全部に反応するな。


 それは、見るなという意味ではない。

 見えていても、選べということだ。


「はい」


 返事をした時、足元のミケが小さく尻尾を揺らした。

 訓練は、それで終わりだった。


 自室へ戻る道は、来る時より長く感じた。


 カゲツは途中までついてきて、部屋の前で足を止めた。


「休め」


「はい」


「ただし、何も見ないつもりで休むな」


 俺は顔を上げた。

 カゲツは続ける。


「一つでいい。選んで見ろ」


 扉が閉まる。


 いつもの部屋。それなのに、ただの部屋には見えない。


 ベッドに腰を下ろした。

 柔らかさは分かる。体重が沈む感覚もある。

 けれど、その下で動く流れまで見えてしまう。


 目を閉じた。

 暗くなる。

 でも、消えない。


 目の奥に、さっきの立方体の静けさが残っている。

 逃げていたものが、逃げられなくなる感じ。


「アオ、大丈夫ニャ?」


 ミケの声がした。


 ベッドの下ではなく、横。

 いつの間にか椅子の上に乗って、こちらを見ていた。


「……」


 今は、ただ静かにしていたい。


 見たくない。

 何も拾いたくない。


 でも、見ないようにしようとすると、逆に全部が気になる。


 壁を見るなと思うと、壁の流れが強くなる。

 床を見るなと思うと、床の反応が浮く。


 空気を見るなと思うと、風の動きが視界の端に集まる。


 見ない。


 見ない。


 そう考えるほど、余計に見える。


「……ミケ」


「いるニャ」


 短い返事だった。

 その声に、少しだけ意識が向いた。


 見えるものは、消えていない。


 でも、ミケの声を聞こうとした瞬間、そのほかのものが少しだけ遠くなった。


 ほんの一瞬。


 薄くなっただけだ。

 消えたわけではない。


 それでも、さっきまで全部が同じ強さで迫ってきていた視界の中で、ミケの声だけが少し近くなった。

 俺は息を止めた。


 もう一度、ミケの方へ意識を向ける。


 ミケの呼吸。


 椅子の上で動く小さな体重。

 尻尾の先が布に触れる音。


 それだけを拾う。

 壁の流れが、また少し薄くなる。


 床の反応が、視界の奥へ下がる。

 空気の揺れは残っている。


 でも、全部を追わなくてもいい。

 見る量を増やすんじゃない。


 見ないものを選ぶ。


 その感覚が、ほんの少しだけ指先に触れた気がした。


「……今、少し」


「少しニャ?」


「うん。少しだけ、静かになった」


 ミケの耳がぴくりと動いた。


「よかったニャ」


 その声だけを、もう少し聞いていた。

 それからも、目はすぐには閉じなかった。

 食事のたびに距離を間違えた。


 廊下を歩くたびに、足を置く場所を一度疑った。


 壁の流れに意識を取られて、人の声への返事が遅れることもあった。


 それでも、少しずつ変わっていった。

 全部を見るのではなく、一つだけを見る。


 追わないものを決める。


 見えているからといって、反応しない。

 何度も失敗して、何度も止まった。


 そのたびに、ミケは近くにいた。


 急かさず、騒がず、ただ時々声をかける。


「アオ」


 その声を選ぶ。

 それだけで、他のものが少し薄くなることがあった。


 そして、数日後。


 朝、目を開けた時、部屋はただの部屋に戻っていた。


 白い壁。

 平らな床。

 静かな照明。


 空気は見えない。

 壁の奥を走る線もない。

 床の反応もない。


 人の周りに重なる揺らぎもない。


 世界が、一枚に戻っている。

 頭が軽かった。

 ずっと押し込まれていたものが抜けたみたいに、呼吸が楽になる。


 俺はベッドの上で、しばらく動かなかった。


 楽だ。


 間違いなく、楽だった。


 でも、手を伸ばそうとした時、少しだけ迷った。

 見えない。

 さっきまで見えていたものが、何もない。


 それが普通のはずなのに、一歩先が少し頼りなく感じた。


 見えすぎるのは苦しい。


 でも、見えていたものが消えると、不安になる。

 俺は自分の手を見る。


 ただの手だった。


 熱の流れも、周りの揺らぎも、何も見えない。

 そのことに安心して、少しだけ物足りなくなる。


「アオ?」


 ミケがベッドの端から顔を出す。


「閉じた?」


「うん」


「楽ニャ?」


「楽」


 そう答えてから、少しだけ遅れて続けた。


「でも、少し……変な感じがする」


 ミケは首を傾げた。


 俺は、もう一度自分の手を見る。

 見えすぎる世界の中で動くのは、まだ難しい。

 普通に食べるだけで失敗する。


 歩くだけで遅れる。


 でも、何も見えない世界も、もう前と同じではなかった。


 もう少しだ。


 もう少しで、この目と一緒に動ける気がする。

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