第七十二話 魔法の目
あれから、一週間を少し過ぎた。
ミケがこの目を開いてから、俺の視界は普通の視界ではなくなっている。
熱の流れが見える。
風の動きが見える。
壁や床の奥を通る何かが、薄い線のように引っかかる。
人の周りには、その人自身とは別の揺らぎが重なって見える。
見ようとしていないものまで、勝手に入ってくる。
最初は一日で閉じた。次は三日か四日続いた。
今は、三度目だ。
少しずつ、慣れてはきた。
ただ座っているだけで気持ち悪くなることは、もうない。
見えているからといって、全部を追わなければいいのだと、頭では分かってきた。
それでも、生活はまだ壊れている。
「アオ、ごはん食べられるニャ?」
「……食べる」
皿の上には、いつものパンがあった。
焼き色も、形も、手で持てる大きさも分かっている。
俺はパンを掴む。
指の位置は間違っていない。硬さも、重さも、ちゃんとある。
そこまでは普通だった。
けれど、口元へ運ぼうとした瞬間、距離がずれた。
パンは見えている。
自分の手も見えている。
口の位置も分かっている。
なのに、間にある空間が、薄く伸びたり縮んだりする。
パンの熱が揺れて、手の周りの流れと重なって、どこまでがパンで、どこからが空気なのか、一瞬だけ分からなくなる。
歯に当たるはずだったパンの端が、唇の横に触れた。
「……」
俺は手を止めた。
ミケが椅子の上で尻尾を小さく丸める。
「ごめんニャ」
「ミケが謝ることじゃない」
そう言って、もう一度パンを見た。
今度は、パンだけを見る。
熱の流れを追わない。
手の周りの揺らぎを見ない。
ただ、形だけを見る。
そう決めてから動かすと、今度は口に入った。
少しだけ噛む。
味は変わらない。
食べるというだけのことに、こんなに意識を使う。
歩く時も、似たことが起きる。
床の奥を流れる線が見える。壁の中の動きが、視界の端で揺れる。
止まっていれば見える。動こうとすると、半拍遅れる。
「アオ」
足元から、ミケの声がした。
俺は壁に手をついたまま、そちらを見る。
「大丈夫ニャ?」
「……前よりは」
嘘ではない。
前よりは、ましだ。
でも、大丈夫かと聞かれると、すぐに頷けない。
ミケは俺の目を開かせることができる。
たぶん、どれくらい深く開くかも、感覚では分かっている。
でも、開いた後、俺が何をどう見てしまうかまではミケにも決められない。
どれだけ入ってくるか。
何が邪魔になるか。
どうすれば普通に動けるか。
そこは、俺の方で覚えるしかない。
ミケは少しだけ耳を伏せていた。
俺はしゃがもうとして、途中で床の流れに目を取られた。膝をつく場所が一瞬遅れる。
それでも何とか腰を落として、ミケの頭に手を置いた。
「ミケのせいじゃない」
「でも、ミケが開いたニャ」
「うん。でも、開いてよかったんだと思う」
言ってから、自分でも少し驚いた。
楽ではない。
正直、閉じてほしい時の方が多い。
それでも、この目は必要なものなのだと、どこかで分かっている。
見えすぎているだけだ。
まだ、合わせ方が分からないだけだ。
扉が鳴った。
控えめな音ではない。必要な分だけ、短く叩かれる。
「碧。入るぞ」
「はい」
カゲツが部屋へ入ってきた。
いつものように無駄な表情はない。
俺の顔を見て、次に足元のミケを見て、それから室内を一度だけ確認する。
「立てるか」
「はい」
俺は立ち上がろうとした。
それなのに、床の奥を流れるものに意識が引っかかって、動き出しが遅れた。
半拍。
たぶん、それくらいだった。
けれど、カゲツは見逃さなかった。
「視えているのに、動きが遅れているな」
「……はい」
「今日は動かす訓練ではない」
カゲツは短く告げる。
「見る訓練だ」
「見る訓練……」
「ついて来い。ミケもだ」
「はい」
「行くニャ」
ミケが先に床へ降りる。
俺は、ミケの尻尾を追わないようにした。揺れるものを追うと、余計に視界が引っ張られる。
部屋を出る。廊下の壁は白い。
白いはずなのに、その奥で細い流れが動いている。
俺は流れを追わないように、一歩ずつ足を置いた。
訓練室の前で、カゲツが足を止める。
扉が開いた。
中は、見慣れた白い空間だった。
中央に、立方体が置かれている。
何度も使ってきた計測器だ。
魔法の反応を受け止め、数値として返す。
俺に分かっていたのは、それくらいだった。
でも今は違う。
立方体の周囲だけ、妙に静かだった。
部屋の中には、いくつもの流れがある。
空気の動き。
壁の奥を走るもの。
床から立ち上がる薄い反応。
その全部が、立方体の近くへ行くと、すっと均される。
消えるのではない。
暴れないように押さえられている。
流れてくるものを受け止めて、外へ漏らさない場所。
そんなふうに見えた。
部屋の端には、記録担当の職員が一人立っていた。
手元の端末を確認している。
カゲツが俺を見る。
「今日は観測のみだ。神具には触れない」
「はい」
「反応は中央の立方体が受ける。出力も演示用に抑える」
カゲツはそこで、記録担当へ目を向けた。
記録担当が短く頷く。
「準備できています」
「始める」
カゲツは腰の側から、小さな器具を取り出した。
金属のようにも、石のようにも見える。
形は単純なのに、視界に入れた瞬間、そこだけ周りの流れと噛み合わない感じがした。
「これから使うのは、不可視の火球を発生させる神具だ」
カゲツの声が、訓練室に落ちる。
「普通の目には見えない。発動した瞬間も、炎そのものは見えない」
俺は立方体を見る。
その周りの静けさが、さっきよりはっきりして見えた。
ミケは部屋の隅に座っている。
いつものように軽口を挟むこともなく、黙ってこちらを見ていた。
カゲツが神具を構えた。
大きな動きはない。指先が器具の表面に触れた。
普通の目なら、そこで終わりだったと思う。
何も起きていない。
炎もない。
光もない。
音も、ほとんどない。
けれど、部屋の端にある測定表示だけが動いた。
数字が跳ねる。
上がって、揺れて、止まる。
五二。
記録担当の職員が、その数値を確認する。
でも、俺にはそれだけではなかった。
火は見えない。
何かが燃え上がるところも見えない。
それなのに、立方体の周りにあった流れが、発動の直前に変わった。
逃げていたものが、そこだけ逃げられなくなる。
散っていたものが、急に行き場を失う。
集まる、というより、押し込められていく。
立方体に触れる前に、周囲の流れが歪んだ。
見えない火球がそこにあるのだと、言葉で理解するより先に、目の奥が拾っていた。
「何が見えた」
カゲツが問う。
俺はすぐに答えようとして、少しだけ言葉に詰まった。
見えたものを、そのまま言えばいい。
でも、見えたものには名前がない。
火ではない。
光でもない。
揺らぎと言えば近い気もする。でも、それだけでは足りない。
「火は、見えません」
まず、そう言った。
カゲツは遮らない。
「でも、立方体に触れる前に、周りの流れが変わりました」
自分の見たままを、少しずつ探る。
「逃げていたものが、そこだけ逃げられなくなったみたいに見えました」
言い終えたあと、部屋が少しだけ静かになった。
カゲツは一瞬だけ黙った後、記録担当へ視線を向ける。
「今の発言を残せ」
「承知しました」
記録担当が端末を操作する音が、小さく響く。
ただ、俺の言葉が記録に残された。
それが逆に、自分が何か普通ではないものを見たのだと分からせた。
部屋の隅にいたミケが、ゆっくりこちらへ歩いてきた。
いつもなら、跳ねるように近づいてくる。
肩に飛び乗ったり、膝を狙ったり、何か言いながら尻尾を立てたりする。
でも今は違った。
足音を立てないように、というより、俺を揺らさないように近づいてくる。
膝に乗るわけでも、肩へ飛ぶわけでもない。
ただ、俺の足元に来て、そこに座った。
俺はその動きが、いつもよりほんの少し丁寧だと気づいた。
ミケは立方体を見て、それから俺を見る。
「アオには、見えるニャ」
俺は何も返せなかった。
見える。
たしかに、見える。
でも、見えているものをどう扱えばいいのかは、まだ分からない。
カゲツが神具を下ろした。
「今のお前に必要なのは、強く使うことではない」
声は変わらない。
訓練の続きとして、ただ必要なことを告げている。
「まず、見る対象を選べ」
「……選ぶ」
「見えたもの全部に反応するな」
言われた瞬間、さっきのパンを思い出した。
熱の流れ。
手の周りの揺らぎ。
空気との境目。
全部を見て、全部に引っかかって、口に運べなかった。
歩く時も同じだ。
床の奥を見て、壁の流れを見て、足を置く場所を迷った。
見えたもの全部に反応するな。
それは、見るなという意味ではない。
見えていても、選べということだ。
「はい」
返事をした時、足元のミケが小さく尻尾を揺らした。
訓練は、それで終わりだった。
自室へ戻る道は、来る時より長く感じた。
カゲツは途中までついてきて、部屋の前で足を止めた。
「休め」
「はい」
「ただし、何も見ないつもりで休むな」
俺は顔を上げた。
カゲツは続ける。
「一つでいい。選んで見ろ」
扉が閉まる。
いつもの部屋。それなのに、ただの部屋には見えない。
ベッドに腰を下ろした。
柔らかさは分かる。体重が沈む感覚もある。
けれど、その下で動く流れまで見えてしまう。
目を閉じた。
暗くなる。
でも、消えない。
目の奥に、さっきの立方体の静けさが残っている。
逃げていたものが、逃げられなくなる感じ。
「アオ、大丈夫ニャ?」
ミケの声がした。
ベッドの下ではなく、横。
いつの間にか椅子の上に乗って、こちらを見ていた。
「……」
今は、ただ静かにしていたい。
見たくない。
何も拾いたくない。
でも、見ないようにしようとすると、逆に全部が気になる。
壁を見るなと思うと、壁の流れが強くなる。
床を見るなと思うと、床の反応が浮く。
空気を見るなと思うと、風の動きが視界の端に集まる。
見ない。
見ない。
そう考えるほど、余計に見える。
「……ミケ」
「いるニャ」
短い返事だった。
その声に、少しだけ意識が向いた。
見えるものは、消えていない。
でも、ミケの声を聞こうとした瞬間、そのほかのものが少しだけ遠くなった。
ほんの一瞬。
薄くなっただけだ。
消えたわけではない。
それでも、さっきまで全部が同じ強さで迫ってきていた視界の中で、ミケの声だけが少し近くなった。
俺は息を止めた。
もう一度、ミケの方へ意識を向ける。
ミケの呼吸。
椅子の上で動く小さな体重。
尻尾の先が布に触れる音。
それだけを拾う。
壁の流れが、また少し薄くなる。
床の反応が、視界の奥へ下がる。
空気の揺れは残っている。
でも、全部を追わなくてもいい。
見る量を増やすんじゃない。
見ないものを選ぶ。
その感覚が、ほんの少しだけ指先に触れた気がした。
「……今、少し」
「少しニャ?」
「うん。少しだけ、静かになった」
ミケの耳がぴくりと動いた。
「よかったニャ」
その声だけを、もう少し聞いていた。
それからも、目はすぐには閉じなかった。
食事のたびに距離を間違えた。
廊下を歩くたびに、足を置く場所を一度疑った。
壁の流れに意識を取られて、人の声への返事が遅れることもあった。
それでも、少しずつ変わっていった。
全部を見るのではなく、一つだけを見る。
追わないものを決める。
見えているからといって、反応しない。
何度も失敗して、何度も止まった。
そのたびに、ミケは近くにいた。
急かさず、騒がず、ただ時々声をかける。
「アオ」
その声を選ぶ。
それだけで、他のものが少し薄くなることがあった。
そして、数日後。
朝、目を開けた時、部屋はただの部屋に戻っていた。
白い壁。
平らな床。
静かな照明。
空気は見えない。
壁の奥を走る線もない。
床の反応もない。
人の周りに重なる揺らぎもない。
世界が、一枚に戻っている。
頭が軽かった。
ずっと押し込まれていたものが抜けたみたいに、呼吸が楽になる。
俺はベッドの上で、しばらく動かなかった。
楽だ。
間違いなく、楽だった。
でも、手を伸ばそうとした時、少しだけ迷った。
見えない。
さっきまで見えていたものが、何もない。
それが普通のはずなのに、一歩先が少し頼りなく感じた。
見えすぎるのは苦しい。
でも、見えていたものが消えると、不安になる。
俺は自分の手を見る。
ただの手だった。
熱の流れも、周りの揺らぎも、何も見えない。
そのことに安心して、少しだけ物足りなくなる。
「アオ?」
ミケがベッドの端から顔を出す。
「閉じた?」
「うん」
「楽ニャ?」
「楽」
そう答えてから、少しだけ遅れて続けた。
「でも、少し……変な感じがする」
ミケは首を傾げた。
俺は、もう一度自分の手を見る。
見えすぎる世界の中で動くのは、まだ難しい。
普通に食べるだけで失敗する。
歩くだけで遅れる。
でも、何も見えない世界も、もう前と同じではなかった。
もう少しだ。
もう少しで、この目と一緒に動ける気がする。




