第六十九話 焦り
訓練が終わったあと、しばらく膝に手をついたまま呼吸を整えた。
汗が顎から落ち、床に小さな跡を作る。すぐに薄い光が走って、その跡は跡ではなくなった。
この施設の床は、汚れをそのまま残さない。
足を置く場所が、ただの床ではない。壁も、扉も、通路の曲がり角も、こちらの動きに合わせて形を変えることがある。
タオルで汗を拭きながら、アオは通路へ出た。
遠くで誰かの足音が響き、そのあと壁の向こうで何かが低く唸った。搬送用の床が動いたのだろう。
足を止めないまま、アオは歩幅を半分だけ変える。
直後、横の通路から職員が二人出てきた。手元の神具に目を落としていて、こちらには気づいていない。
避ける。
昔なら、相手の肩や足だけを見ていたと思う。
でも、この世界ではそれでは遅れる。
人は、身体だけで動かない。
魔法がある。神具がある。床も壁も、ただの背景ではない。
手が動く前に光が走ることがある。足を踏み出す前に、床の方が相手を運ぶこともある。
何もない空間に、急に線が引かれることもある。
地球の感覚のままでは、危険を見落とす。
だから、忘れる必要があった。
全部ではない。捨てたくないものもある。
けれど、身体の使い方だけは、この世界のものに合わせなければいけなかった。
逃げる時は、相手の手だけを見ない。
曲がり角の奥。壁の色。床のわずかな沈み。神具を握る指。
それらをまとめて、危険かどうか判断する。
そうしなければ、きっと、生きて戻れない。
アオは歩きながら、さっきの訓練を思い返した。
最初の頃より、足は止まらなくなった。
まだ完璧ではない。
でも、できることは増えた。
それは、分かる。
翌日も、訓練はいつも通りに始まった。
白い施設の中庭は、相変わらず整いすぎている。
柱の位置も、低い壁の高さも、通路の幅も、全部が試すために置かれている。
今日の条件は、前より少し厳しかった。
回収地点は三つ。
追うのはカゲツ。
外側の導線を見るのは、ソウマ。
開始の合図と同時に、アオは走った。
一つ目は、すぐに取れた。
二つ目で、カゲツの足音が近づく。
速い。
大人の歩幅だ。真正面から距離を取れば、必ず潰される。
低い壁の横を抜け、身体を少しだけ見せる。追ってくる気配が寄った瞬間、柱の影で角度を変えた。
カゲツの手が空を切る。
その指先の風を、肩のすぐ後ろに感じた。
近い。
怖くないわけじゃない。
でも、止まらなかった。
三つ目の札を取る。帰路は、もう読まれている。広い通路へ出ればソウマがいる。狭い方へ逃げればカゲツが届く。
以前なら、そこで選ばされていた。
今日は、どちらにも行かなかった。
低壁の切れ目に足をかけ、身体を小さく畳む。
子供の身体でなければ通れない隙間。手をつき、肩を抜き、転がるようにして外へ出た。
背後で、カゲツの足が止まる。
前方の通路の端で、ソウマが一瞬だけ動きを変えた。
塞がれる。
そう思うより先に、アオは札を胸に押さえたまま、外周の影へ滑り込んだ。
最後は、息もほとんど残っていなかった。
それでも、指定された線を越えた。
捕まらなかった。
膝に手をつき、荒い息を吐く。喉が焼ける。足も重い。心臓がうるさい。
でも、手の中には三つの札があった。
カゲツが近づいてきた。
「判断も悪くない」
「今の課題は、予定通り消化できている」
「……はい」
アオは頷いた。
できることは増えている。
少し離れた場所で、ソウマが周囲の確認を終えていた。
訓練用の導線を閉じ、職員に何か短く伝えてから、こちらへ歩いてくる。
近づいてから、ソウマは一礼した。
「お疲れさまでした、アオ様」
「……お疲れさまです」
まだ息が整いきらないまま返すと、ソウマは手元の記録に目を落とした。
「順調です」
その一言が、訓練場の白い空気に落ちた。
続けて、ソウマは顔を上げる。
「守護長にも、そう報告できます」
心が少しだけ、ふっと軽くなった。
父さんに、悪い報告は行かない。
母さんにも、サラにも、心配を増やさずに済む。
ベイラへ届く言葉が、少なくとも今日も悪いものではない。
「……そうですか」
順調。
カゲツもそう見ている。
ソウマも、そう報告できると言った。
俺自身にも、成長している自覚はある。
逃げ方を覚えた。
危険を判断する力も、前よりはついた。
この世界の人間がどう動くのか。魔法や神具がある場所で、何を見なければいけないのか。
それも、少しずつ分かってきた。
訓練の意味はある。
間違いなく、ある。
なのに。
残ったものは、消えなかった。
順調。
じゃあ、俺は何に近づいているんだろう。
国境が燃えているなら。
海の向こうで、何かが壊れているなら。
その火の広がり方も知らないまま、どこへ走ればいいのか。
誰を先に逃がせばいいのか。
何を止めれば、次の崩れを防げるのか。
世界を救う。
その言葉だけが、今でも大きすぎる。
「守護長にも、そう報告できます。」
ソウマの声が、もう一度頭の中に響いた。
その言葉の裏から、別の光景が浮いた。
サラの手。
知らない場所へ連れて行かれていたかもしれない背中。
俺が見ていないところで、もう取り返せなくなっていたかもしれないもの。
息が止まった。
あの時は、届いた。
たまたま、届いた。
けれど、次もそうとは限らない。
俺が知らない場所で、俺が名前も知らない誰かが、もう間に合わないところまで運ばれているかもしれない。
それを知る方法が、今の俺にはない。
何かが起きていることは知っている。
世界が安定していないことも、もう分かっている。
レイランで見たものも、ナイラが来た時の空気も、訓練の中で聞く外界の話も、全部が少しずつ繋がっている気がする。
でも、繋がっている気がするだけだ。
何が起きている。
どこから始まっている。
何を守れば止まる。
誰も、そこまでは教えてくれない。
必要な情報は、段階に応じて渡される。
そういうことなのだろう。
子供だから。
まだ早いから。
知らない方がいいから。
分かる。
分かるけれど。
なら、英雄になれなんて言わないでほしかった。
世界を救えなんて、そんな大きな言葉を先に渡さないでほしかった。
家族を守れ。
世界を守れ。
足掻け。
そう言われた。
白い場所で聞いた声も、まだどこかに残っている。
世界は、詰んでいる。
そんな言葉だった気がする。
だから俺は、来た。
父さんと母さんとサラに行ってくると言って、家を出た。
一人でここに来て、訓練して、学んで、知らない常識を身体に入れてきた。
もう三年だ。
技術の見方も、魔法の知識も増えた。
この世界の危険も、前より分かる。
逃げ方も、防ぎ方も、少しずつ覚えた。
でも、それで何が救える。
人間として、生き物として、魔法を使えるようになったとしても、できることには形がある。
走れる距離がある。
届く手の長さがある。
守れる人数がある。
それは、想像できてしまう。
想像できてしまう程度の力では、世界という言葉に届かない。
だったら、教えてくれ。
何が危機なんだ。
どこが壊れているんだ。
俺は、いつまでここで走っていればいい。
この教育は、いつ終わる。
何ができれば、次に進める。
アークヴェリアが俺を守ってくれていることは分かる。
父さんも、母さんも、ソウマも、カゲツも、俺を騙そうとしているとは思わない。
でも、国だ。
善意だけで国は動かない。
地球で、それは嫌というほど見てきた。
英雄という言葉は、使われる。
必要なら、人は英雄を前に立たせる。
称賛して、期待して、背中を押して、それでも結果だけは求める。
俺は、それを知っている。
アークヴェリアにも、打算はあるはずだ。
それが悪いとは思わない。
本当に世界が詰んでいるなら、打算でも何でも使うべきだ。
でも。
使うなら、せめて見せてほしい。
何と戦うのか。
何を守ればいいのか。
自分がどこに置かれているのか。
それすら見えないまま、順調だと言われても。
順調に、どこへ向かっているのかが分からない。
アークヴェリアは、最後の柱と呼ばれている。
けれど、ナイラはシェイラを魔都と呼んだ。
レイランでは、魔界のふもと、という言葉も聞いた。
同じ場所のはずなのに、呼び方が違う。
そこにある温度も違う。
頼られているのか。
怖がられているのか。
利用されているのか。
それすら、俺はちゃんと知らない。
ドラグナール帝国。
授業で名前は聞いた。
地図にもあった。資料にも出てきた。
でも、その国がアークヴェリアをどう見ているのか、俺は知らない。
名前だけがある。
意味が繋がらない。
ソウマに聞けば、何か答えてくれるかもしれない。
カゲツに聞けば、訓練に必要な範囲では教えてくれるかもしれない。
でも、口には出なかった。
訓練の意味がないと思っているわけじゃない。
カゲツが間違っているとも思わない。
ソウマの報告が甘いとも思わない。
だから、言えなかった。
言葉にした瞬間、ただの弱音になる。
不満になる。
まだ何もできない子供が、答えだけを欲しがっているように聞こえる。
違う。
答えだけが欲しいんじゃない。
測るためのものが欲しい。
自分がどこに立っているのか。
何へ向かっているのか。
この足が、どこまで届くのか。
それを測るための、線が欲しい。
壁面の予定表示が、淡く光っている。
明日の訓練。
次の確認。
記録の数値は悪くない。
成長はしている。
それでも、心は晴れなかった。
分からないことが多すぎる。
これでは、何も測れない。




