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現実世界で世界を救った俺、異世界で魔王に転生したみたいだけどなんやかんや世界を救うはめになりそう ~世界を救う魔王の英雄プロトコル~  作者: 足本 弘
第五章 目覚め

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第六十九話 焦り

 訓練が終わったあと、しばらく膝に手をついたまま呼吸を整えた。

 汗が顎から落ち、床に小さな跡を作る。すぐに薄い光が走って、その跡は跡ではなくなった。

 この施設の床は、汚れをそのまま残さない。

 足を置く場所が、ただの床ではない。壁も、扉も、通路の曲がり角も、こちらの動きに合わせて形を変えることがある。


 タオルで汗を拭きながら、アオは通路へ出た。


 遠くで誰かの足音が響き、そのあと壁の向こうで何かが低く唸った。搬送用の床が動いたのだろう。

 足を止めないまま、アオは歩幅を半分だけ変える。


 直後、横の通路から職員が二人出てきた。手元の神具に目を落としていて、こちらには気づいていない。


 避ける。


 昔なら、相手の肩や足だけを見ていたと思う。

 でも、この世界ではそれでは遅れる。

 人は、身体だけで動かない。


 魔法がある。神具がある。床も壁も、ただの背景ではない。

 手が動く前に光が走ることがある。足を踏み出す前に、床の方が相手を運ぶこともある。

 何もない空間に、急に線が引かれることもある。


 地球の感覚のままでは、危険を見落とす。


 だから、忘れる必要があった。

 全部ではない。捨てたくないものもある。


 けれど、身体の使い方だけは、この世界のものに合わせなければいけなかった。

 逃げる時は、相手の手だけを見ない。


 曲がり角の奥。壁の色。床のわずかな沈み。神具を握る指。

 それらをまとめて、危険かどうか判断する。


 そうしなければ、きっと、生きて戻れない。


 アオは歩きながら、さっきの訓練を思い返した。

 最初の頃より、足は止まらなくなった。


 まだ完璧ではない。


 でも、できることは増えた。

 それは、分かる。


 翌日も、訓練はいつも通りに始まった。

 白い施設の中庭は、相変わらず整いすぎている。

 柱の位置も、低い壁の高さも、通路の幅も、全部が試すために置かれている。

 今日の条件は、前より少し厳しかった。


 回収地点は三つ。

 追うのはカゲツ。

 外側の導線を見るのは、ソウマ。


 開始の合図と同時に、アオは走った。


 一つ目は、すぐに取れた。

 二つ目で、カゲツの足音が近づく。


 速い。


 大人の歩幅だ。真正面から距離を取れば、必ず潰される。

 低い壁の横を抜け、身体を少しだけ見せる。追ってくる気配が寄った瞬間、柱の影で角度を変えた。


 カゲツの手が空を切る。

 その指先の風を、肩のすぐ後ろに感じた。


 近い。


 怖くないわけじゃない。

 でも、止まらなかった。


 三つ目の札を取る。帰路は、もう読まれている。広い通路へ出ればソウマがいる。狭い方へ逃げればカゲツが届く。


 以前なら、そこで選ばされていた。

 今日は、どちらにも行かなかった。


 低壁の切れ目に足をかけ、身体を小さく畳む。

 子供の身体でなければ通れない隙間。手をつき、肩を抜き、転がるようにして外へ出た。


 背後で、カゲツの足が止まる。

 前方の通路の端で、ソウマが一瞬だけ動きを変えた。


 塞がれる。


 そう思うより先に、アオは札を胸に押さえたまま、外周の影へ滑り込んだ。

 最後は、息もほとんど残っていなかった。


 それでも、指定された線を越えた。


 捕まらなかった。


 膝に手をつき、荒い息を吐く。喉が焼ける。足も重い。心臓がうるさい。

 でも、手の中には三つの札があった。


 カゲツが近づいてきた。


「判断も悪くない」


「今の課題は、予定通り消化できている」


「……はい」


 アオは頷いた。

 できることは増えている。


 少し離れた場所で、ソウマが周囲の確認を終えていた。

 訓練用の導線を閉じ、職員に何か短く伝えてから、こちらへ歩いてくる。


 近づいてから、ソウマは一礼した。


「お疲れさまでした、アオ様」


「……お疲れさまです」


 まだ息が整いきらないまま返すと、ソウマは手元の記録に目を落とした。


「順調です」


 その一言が、訓練場の白い空気に落ちた。

 続けて、ソウマは顔を上げる。


「守護長にも、そう報告できます」


 心が少しだけ、ふっと軽くなった。


 父さんに、悪い報告は行かない。

 母さんにも、サラにも、心配を増やさずに済む。


 ベイラへ届く言葉が、少なくとも今日も悪いものではない。


「……そうですか」


 順調。


 カゲツもそう見ている。

 ソウマも、そう報告できると言った。


 俺自身にも、成長している自覚はある。


 逃げ方を覚えた。

 危険を判断する力も、前よりはついた。

 この世界の人間がどう動くのか。魔法や神具がある場所で、何を見なければいけないのか。

 それも、少しずつ分かってきた。


 訓練の意味はある。

 間違いなく、ある。


 なのに。


 残ったものは、消えなかった。


 順調。


 じゃあ、俺は何に近づいているんだろう。


 国境が燃えているなら。

 海の向こうで、何かが壊れているなら。


 その火の広がり方も知らないまま、どこへ走ればいいのか。


 誰を先に逃がせばいいのか。

 何を止めれば、次の崩れを防げるのか。


 世界を救う。


 その言葉だけが、今でも大きすぎる。


 「守護長にも、そう報告できます。」


 ソウマの声が、もう一度頭の中に響いた。

 その言葉の裏から、別の光景が浮いた。


 サラの手。


 知らない場所へ連れて行かれていたかもしれない背中。

 俺が見ていないところで、もう取り返せなくなっていたかもしれないもの。


 息が止まった。


 あの時は、届いた。

 たまたま、届いた。


 けれど、次もそうとは限らない。

 俺が知らない場所で、俺が名前も知らない誰かが、もう間に合わないところまで運ばれているかもしれない。


 それを知る方法が、今の俺にはない。

 何かが起きていることは知っている。


 世界が安定していないことも、もう分かっている。

 レイランで見たものも、ナイラが来た時の空気も、訓練の中で聞く外界の話も、全部が少しずつ繋がっている気がする。

 でも、繋がっている気がするだけだ。


 何が起きている。

 どこから始まっている。

 何を守れば止まる。


 誰も、そこまでは教えてくれない。

 必要な情報は、段階に応じて渡される。


 そういうことなのだろう。


 子供だから。

 まだ早いから。

 知らない方がいいから。


 分かる。

 分かるけれど。


 なら、英雄になれなんて言わないでほしかった。

 世界を救えなんて、そんな大きな言葉を先に渡さないでほしかった。


 家族を守れ。

 世界を守れ。

 足掻け。


 そう言われた。


 白い場所で聞いた声も、まだどこかに残っている。


 世界は、詰んでいる。

 そんな言葉だった気がする。


 だから俺は、来た。


 父さんと母さんとサラに行ってくると言って、家を出た。

 一人でここに来て、訓練して、学んで、知らない常識を身体に入れてきた。


 もう三年だ。


 技術の見方も、魔法の知識も増えた。

 この世界の危険も、前より分かる。

 逃げ方も、防ぎ方も、少しずつ覚えた。


 でも、それで何が救える。


 人間として、生き物として、魔法を使えるようになったとしても、できることには形がある。


 走れる距離がある。

 届く手の長さがある。

 守れる人数がある。


 それは、想像できてしまう。


 想像できてしまう程度の力では、世界という言葉に届かない。


 だったら、教えてくれ。

 何が危機なんだ。


 どこが壊れているんだ。

 俺は、いつまでここで走っていればいい。


 この教育は、いつ終わる。

 何ができれば、次に進める。


 アークヴェリアが俺を守ってくれていることは分かる。


 父さんも、母さんも、ソウマも、カゲツも、俺を騙そうとしているとは思わない。


 でも、国だ。


 善意だけで国は動かない。

 地球で、それは嫌というほど見てきた。


 英雄という言葉は、使われる。

 必要なら、人は英雄を前に立たせる。

 称賛して、期待して、背中を押して、それでも結果だけは求める。


 俺は、それを知っている。


 アークヴェリアにも、打算はあるはずだ。

 それが悪いとは思わない。

 本当に世界が詰んでいるなら、打算でも何でも使うべきだ。


 でも。


 使うなら、せめて見せてほしい。

 何と戦うのか。

 何を守ればいいのか。


 自分がどこに置かれているのか。


 それすら見えないまま、順調だと言われても。

 順調に、どこへ向かっているのかが分からない。


 アークヴェリアは、最後の柱と呼ばれている。

 けれど、ナイラはシェイラを魔都と呼んだ。

 レイランでは、魔界のふもと、という言葉も聞いた。


 同じ場所のはずなのに、呼び方が違う。


 そこにある温度も違う。


 頼られているのか。

 怖がられているのか。

 利用されているのか。


 それすら、俺はちゃんと知らない。


 ドラグナール帝国。

 授業で名前は聞いた。


 地図にもあった。資料にも出てきた。

 でも、その国がアークヴェリアをどう見ているのか、俺は知らない。


 名前だけがある。


 意味が繋がらない。


 ソウマに聞けば、何か答えてくれるかもしれない。

 カゲツに聞けば、訓練に必要な範囲では教えてくれるかもしれない。


 でも、口には出なかった。


 訓練の意味がないと思っているわけじゃない。

 カゲツが間違っているとも思わない。


 ソウマの報告が甘いとも思わない。

 だから、言えなかった。


 言葉にした瞬間、ただの弱音になる。

 不満になる。


 まだ何もできない子供が、答えだけを欲しがっているように聞こえる。


 違う。

 答えだけが欲しいんじゃない。

 測るためのものが欲しい。


 自分がどこに立っているのか。

 何へ向かっているのか。

 この足が、どこまで届くのか。


 それを測るための、線が欲しい。


 壁面の予定表示が、淡く光っている。

 明日の訓練。


 次の確認。


 記録の数値は悪くない。

 成長はしている。


 それでも、心は晴れなかった。


 分からないことが多すぎる。


 これでは、何も測れない。

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