第六十六話 出られない街
男は、商隊の最後尾に近い位置で荷を抱えていた。
認可を受けた搬入商隊。
シェイラへ入るための名簿に名があり、荷には確認済みの札がついている。門を通る時も、必要な確認は受けた。
商隊そのものは本物だ。
積み荷も、記録も、通行の手順も、ここへ来るまでに重ねてきた実績も。
だから、ここまでは入れた。
けれど、入れたことと、出られることは別だ
(……重い)
男は奥歯を噛む。
抱えている荷の重さではない。
脚が重い。
外なら、この程度の荷を抱えていても問題にはならない。
足先に力を通し、膝と腰を軽く押し上げる。狼の血を引く脚に、小さな魔法を重ねる。
そうすれば、跳ぶつもりで跳べた。
壁を越えるつもりで踏み切れば、手が届いた。
角を曲がる時も、体は遅れない。
……ここでは違う。力が通らない。
まったく使えないわけではない。けれど、体の奥で噛み合わない。
踏み込もうとした瞬間、いつもの半分にも満たない反応で返ってくる。
跳べるはずの高さに、届かない。
届くはずの壁に、指がかからない。
曲がれるはずの角で、体が遅れる。
シェイラに入る前から聞かされてはいた。
この街では、外と同じように力を使えると思うな。
だが、知っていることと、身体で思い知ることは違う。
(出られない街、か)
誰かがそう呼んでいた。
大げさだと思っていた。
今は、笑えない。
白く整った街並み。川沿いの道。店の並び。穏やかな人の流れ。
どこを見ても、戦場には見えない。
それなのに、この街は足から自由を奪ってくる。
男は、耳を伏せたい衝動を押さえた。
犬の耳を持つ者は、感情が出やすい。狼の血が混じっていればなおさらだと、昔からからかわれてきた。
今は、揺らすな。
怯えを見せるな。
自分は商隊員だ。
シェイラへの搬入組としては新顔だが、荷の扱いも、札の見方も、受領書の戻し方も覚えた。
少し緊張していても、おかしくはない。
ただの荷運びとして、ここにいなければならない。
ここまで来た理由を、思い出す。
故郷では、アークヴェリアの名を軽く口にしない。
曽祖父は、その国に関わる遠征で帰らなかった。祖母はその話をする時、いつも声を落とした。
曽祖父の世代に、国は一度折れた。
王は、王だけの国をやめた。
皆で守る国になった。
祖母は、その話だけは誇りのように語った。
けれど、その誇りの届かない場所で、男は育った。
レイランに近い国境沿いの街。
正規軍を大きく動かせない土地。
国から完全に見捨てられたわけではない。物資は届く。役人も来る。報告も上がる。
それでも、本当に危ない時、最初に間に合わなくなる場所だった。
依頼板から剥がされない討伐票。
地図から消えた村。
戻せなかった札。
帰ってこなかった者の名前。
そういうものを、男は何度も見てきた。
妹は、今年ようやく自分の店を持つと言っていた。
家族はまだ笑って暮らしている。
祖母も、昔より背は丸くなったが、炉の前に座れば相変わらず小言が長い。
それがいつまで続く。
報酬が欲しくなかったと言えば嘘になる。
誰かが危険を冒さなければ、何も変わらない。
そう言われた。
そうだと思った。
金だけなら、ここまでは来なかった。
男は、視線だけを荷の方へ落とす。
必要な計測は終わっている。
数字の意味を、男は全部は知らない。その先でどう使われるのかも、細かい理屈までは説明されていない。
けれど、どの針がどこまで振れたら記すべきかは、何度も叩き込まれていた。
荷を置き直すふりをした。
札を確認するふりをした。
搬入記録を見直すふりをした。
そのたびに、少しずつ測った。
そして、記した。
必要なのは、この街で針がどう振れるかだった。
外で聞かされた値と、どれだけ違うか。
その違いさえ記せばいい。
そう叩き込まれていた。
実物がこの場所で、どう動くか。
それだけでよかった。
記録した紙は、もう手元にない。
受領書の切れ端。
ただの紙にしか見えない。熱を加えなければ、何も出ない。特定の薬を使わなければ、数字は浮かばない。
返却済みの受領書束の中に、紛れ込ませた。
あとは、次の者が拾うだけだった。
(届いたか)
もう拾われただろうか。
まだだろうか。
拾われる前に、誰かに見つかっていないだろうか。
男は、喉の奥が乾くのを感じた。
自分が戻れなくても、あの紙だけは外へ出てほしい。
故郷へも、祖母の家へも、妹の店へも、もう戻れないかもしれない。
それでも。
あの紙だけは。
そう思った時だった。
空気が変わった。
商隊の流れが、ほんの少し詰まる。
前方で、確認の声がした。
「念のため、荷を改めます。全て確認させてください」
落ち着いた声だった。
荒くない。
怒鳴ってもいない。
だからこそ、逃げ場が狭くなる。
男の尾の付け根が、冷たくなった。
気づかれたのか。
いや、まだだ。
荷の確認なら、商隊全体に対するものかもしれない。搬入で小さな手違いが起きることはある。新人が怯えれば、それこそ目立つ。
動くな。
まだ動くな。
男は呼吸を浅く整える。
だが、横合いの気配が一つ変わった。
視線。
ただ見るだけではない。
流れの中で、こちらを外していない視線。
男は、肌の裏が冷えるのを感じた。
歩く速度がずれていた。
荷を置くタイミングが、他の者と噛み合っていなかった。
受領書束へ触れた瞬間。
あれも、見られていたかもしれない。
どれも小さなズレだった。
だが、重なりすぎた。
遅い。
今動かなければ、荷と身柄の両方を押さえられる。
男は荷を落とした。
音が出る。
周囲の目が集まる。
構わない。
脚に力を通す。
外なら、一歩で人垣を抜けられる。
二歩目で壁へ届く。
三歩目で屋根の縁を掴める。
踏み込んだ瞬間、力は鈍く沈んだ。
(くそっ)
足が伸びない。体が軽くならない。
それでも、止まるわけにはいかない。
紙がどうなったか分からない。
拾われたのか、まだなのかも分からない。
なら、少しでも時間を稼ぐしかない。
男は人の流れの切れ目を見つけ、商店の並ぶ通りへ飛び込んだ。
背後で誰かが動く。
複数。
一人は上だ。
足音の位置が高い。
壁か、足場か。
もう一人は後ろの退路を塞ぐように動いている。
訓練された連中だ。
逃げ切れると思うな。
それでも諦めるな。
男は角を曲がり、壁に手をかけた。
本来なら、そのまま上へ抜ける。
爪がかかる高さまで、跳べるはずだった。
指先が壁面を掻く。
いつもなら、そこで体が浮く。
浮かなかった。
男は舌打ちを飲み込んだ。
やはり、この街では駄目だ。
脚も、腕も、いつものように返ってこない。
地上を走るしかない。
なら、人の流れを使う。
店先。
橋。
子供連れ。
荷車。
追う者が守る側なら、そこへ踏み込めない。
男は、息を吸った。
傷つけるつもりはない。
掴むつもりもない。
斬るつもりもない。
殺すつもりなど、ない。
人のいる側へ寄れば、追手は止まる。
守る側なら、一瞬遅れる。
それだけで逃げ道ができる。
男は、自分が何を考えているのかを、考えないようにした。
依頼板の前で泣いていた母親を覚えている。
焼け跡から拾った、小さな靴を覚えている。
守る側でいたかった。
それでも、足は人のいる方へ向いた。
獣の肺が熱を持つ。
視界が狭くなる。
その中で、追手の一人を見た。
小柄だった。
子供。
まだ背も高くない。
街の中で浮かない程度の衣服を着ている。
正規の警備と比べれば、明らかに軽装だが、動きが違う。
普通の子供ではない。こちらを見失っていない。
位置取りも悪くない。
強いかもしれない。
男の中で、一瞬だけ計算が変わった。
迷う余裕は、ない。
追手は複数。脚は鈍る。時間も尽きる。
残った選択肢は、薄い突破口しかない。
正規の警備より軽い。
小柄で、若い。
そして何より、守る側の位置取りをしている。
あの子供を倒す必要はない。
傷つける必要もない。
守ろうとする者ほど、動きが遅れる。
男は、足を横へ向けた。
店先に人影がある。
そこへ寄る。
あの子供の前に守るものを置く。
追うか。
守るか。
迷え。
一瞬でいい。
捕まるわけにはいかない。
まだ、終わっていない。




