第六十四話 アークヴェリア
カゲツに連れられて執務室へ戻ると、机に向かっていたトウカが書類から顔を上げた。
「カゲツ、ご苦労」
「は。碧守護特務官教育生の世界への干渉力は、先ほど報告した通り八十三QEU。魔法の目は未発現、神具も不使用。その条件としては驚異的です」
トウカは短く頷いた。
「分かっている。……だからこそだ」
その視線が、まっすぐアオへ向く。
「本来なら、まだ早い。だが教育機関からの報告と、昨日から今日までの様子を見て、今の段階で伝えると決めた」
執務室は静かだった。壁際の棚も、机の上の書類も、乱れがない。整いすぎていて、立っているだけで背筋が伸びるような空気がある。
「これから、我らアークヴェリアの現状と、英雄プロトコルについて話す。心して聞け」
アオは息を整え、小さく頷いた。
「……はい」
トウカは座ったまま、よどみなく言葉を続ける。
「伝承上の英雄プロトコルは、世界の危機に備え、各地の神の都市に眠る神獣を目覚めさせるための手順だ。神の都市は、シェイラを含めて五つある。」
神獣、という言葉にアオはわずかに眉を動かしたが、口は挟まなかった。
「英雄が無事に旅を進められるよう、必要な力と備えを整える。それが柱になっている」
そこで一度だけ言葉を切る。
「少なくとも、現在のアークヴェリアではそう解釈し、貴殿に対して運用している」
アオは少しだけ迷ってから口を開いた。
「……それが、自分に進められているものなんですか」
「そうだ」
曖昧に濁す気はないらしい。
英雄、という言葉の重さは知っている。
だが、それが手順として、自分に向けて動いていると言われると、途端に輪郭を持って迫ってくる。
トウカはそのまま続けた。
「危機そのものの正体は、まだ分からん。だが、魔獣の発生頻度は増え、自然災害も強まっている。世界に何かが起きていることだけは確かだ」
大げさに脅す口調ではなかった。ただ、見えている事実だけを並べている。だからこそ、かえって嘘ではないと分かる。
アオは黙って聞いた。
「そして、我らアークヴェリアは特殊な国でもある」
トウカの声がわずかに低くなる。
「守護獣という強大な抑止力を持ち、シェイラもまた外界から隔てられている。外界との交流を絞りながら、長い間、干渉を跳ねのけてきた」
その言葉に続いて出たのは、少しだけ温度の違う事実だった。
「九十年前には、守護獣一柱のみで外界の軍勢を壊滅させた前例もある」
アオはその言葉に、すぐには返せなかった。
守護獣が強いことは知っている。
隼丸が誰にも負けないことも、レイランを守っていることも知っている。
けれど――軍勢を壊滅させる。
その響きだけが、妙に重かった。
隼丸の姿は思い浮かぶ。大きな身体も、揺るがない気配も、身近なものとして覚えている。
だが、あの存在と「軍勢を壊滅させる」という言葉が、うまく重ならない。
喉の奥がわずかに狭くなる。
遠いはずの、ひどく乾いた記憶が一瞬だけ触れた。人がまとまって倒れる映像。逃げ遅れた影。言葉にならないざわつき。
それらが形になる前に、アオはそこで思考を止めた。
「だが、だから安心だとは言えん」
トウカの声が落ちる。
隼丸たちが負けるとは思えない。
だが、それで国の全部を守りきれるかは別なのだろう。
勝てることと、被害を出さずに終わらせることは同じではない。
そこでアオはようやく口を開いた。
「……勝てても、守りきれないんですか」
「強すぎる力は、それ自体が恐れを呼ぶ。外界には我らを脅威と見なし、滅ぼそうと考える者たちもいる」
トウカの声に揺れはない。
机の向こうに座るトウカの姿は動かない。だが、その一言ごとに、アオの足元に置かれるものだけが重くなっていく。
「昔と同じ形で済む保証はない。次は、より大きな被害を招くかもしれん」
そこで、トウカははっきりと告げた。
「守護獣は最後の力だ。最後の力に頼る前に、事態を止める手が要る」
アオは息を呑んだまま、次の言葉を待った。
「ゆえに、貴殿に期待する役割は二つある」
静かな執務室に、その言葉だけがくっきりと落ちた。
「一つは、本来の英雄の役割だ。世界の異変に対処するための歩みを進めること」
トウカの視線は逸れない。
「もう一つは、現実の脅威に対する抑止力になることだ」
アオの口から、かすれたような声が漏れた。
「……自分が、ですか」
「貴殿一人に全てを背負わせるつもりはない」
即座にそう返したあとで、トウカは言葉を継ぐ。
「だが、貴殿がいることで、守護獣を最後まで切らずに済む可能性が生まれる」
アオは何も言えなかった。
守護獣の代わりとも、全部を背負えとも言っていない。それでも、自分がいれば変わるかもしれないと、そう言われている意味は分かった。
胸の奥が、少しだけ重くなる。
その重さを持て余したまま、アオは問いを絞り出した。
「……今の自分に、できることはあるんですか」
答えはすぐには返らなかった。
短い沈黙のあと、トウカは横に立つカゲツへ視線を送る。
「今すぐ全てを求めるつもりはない」
その言葉を受けて、カゲツが口を開いた。
「現時点で、魔法の目はまだ開いていない」
アオはそちらを見る。
「兆候はある。だが時期は読めん」
淡々とした口調で、いたずらに煽る響きもない。ただ現状だけを示す。
「だから当面は、魔法に頼らず、生きて戻るための技術を積む」
「……死なないための訓練、ですか」
「そうだ」
カゲツは一歩も動かずに言った。
「魔法は使うなとは言わん。だが、頼るな」
カゲツの言葉が落ちると、執務室に短い静けさが満ちた。
魔法に頼らず、生きて戻るための技術を積む。
アオは何も言わず、その言葉を受け止める。
力があっても死ぬ時は死ぬ。使えるものが増える前に、使わなくても崩れない動きと判断を身につける。順番としてはむしろ当然だ。
トウカが椅子の背にわずかに身体を預けた。
「そのために講師をつける。ソウマ、入れ」
間を置かず、扉の向こうから短い返答があった。
「はい」
静かに扉が開く。
入ってきた姿を見た瞬間、アオは目を見開いた。
見覚えがある。いや、見間違えるはずがなかった。
整った身なりのまま一歩進み、ソウマは執務室の中央で足を止める。変わらず柔らかな顔つきだったが、立ち方には無駄がなく、前に会った時よりも輪郭がはっきりして見えた。
「お久しぶりです、アオ様」
アオは一拍遅れて背筋を伸ばし、一礼する。
「……お久しぶりです」
名前を呼ばれて、さっきまで別の方向へ張っていた意識が少しだけ戻ってくる。
ソウマはそんなアオを見て、小さく頷いた。
「これからカゲツ殿と一緒に、アオ様に実戦で使える動きと考えをお教えいたします」
声音は穏やかだった。だが、言葉の置き方に迷いはない。
「訓練場の中だけでは分からないことが多い。生きて戻る術は、街で覚えるものです」
街。
その一語に、アオは思わず聞き返していた。
「……街、ですか」
「はい」
ソウマは淡く笑うでもなく、そのまま続ける。
「安全な場所と危険な場所の違い。人の流れの見方。追われた時にどう切るか、逆に相手をどう見るか。そういうものは、実際に歩かなければ身につきません」
そこで言葉を止め、アオの様子を静かに確かめる。
街で覚える。
人が集まる場所は、守るべき場所でもある。
同時に、何かが起きた時には、そこから先へ被害を通さないための壁にもなる。
戦う場所というより、被害をどこまで抑えられるか、何を起こさずに済ませられるかを問われる場所だ。
逃げ道を知ることも、危ない場所を見分けることも、追われた時にどう切るかを知ることも、結局はそのためなのだろう。
魔法がどうこうという前に、まず間違えないこと。
余計な被害を出さないこと。
生きて戻るというのは、自分だけ戻ればいいという話ではない。
「……分かりました」
答えると、ソウマは静かに頷いた。
その横で、カゲツが短く言う。
「ここから先は実戦だ」
執務室の空気が、そこでひとつ切り替わった気がした。
トウカは机の向こうから二人を見て、最後にアオへ視線を向ける。
「当面はカゲツとソウマの監督下でのみ街へ出す」
「行ってこい」
「はい」
アオはそう返し、ソウマとカゲツに続いて扉へ向かった。




