第六十三話 守護特務官教育生
「今日の訓練はここまでだ」
トウカの言葉が落ちると、カゲツが一歩前へ出た。
「まずは休め。部屋へ案内する」
アオは浅く息を整え、どうにか立ち上がった。脚の奥にまだ熱が残っている。走り終えた直後よりましだが、膝の裏は重く、肩口には何度も掴まれた感触が鈍く残っていた。
訓練場を出て、白い廊下を進む。
来る時は周囲を見る余裕もなかったが、今は少しだけ分かる。
人の気配はある。けれど、廊下で言葉を交わす者はいない。すれ違う人間も、自分の用件だけを抱えて、決められた方向へ進んでいく。
誰かが暮らすための場所というより、決められたことを決められた通りに行うための場所に近かった。
いくつか角を折れ、短い階段を上がった先で、カゲツが立ち止まる。
開いた扉の向こうを見て、アオはわずかに目を見開いた。
広い。
最初に浮かんだ感想は、それだけだった。
前の部屋より明らかに広い。部屋も一つではない。一人で使うには広すぎると思えるくらいには、空間に余りがあった。
整えられた机、低い棚、簡素だが質の良さそうな椅子。奥にはもう一つ扉が見える。
そして壁際には、見覚えのある荷物が既に運び込まれていた。
「ここを使え」
カゲツが中へ入り、振り返る。
「士官候補生と幹部訓練用の部屋だ。以前いた教育機関の部屋より、広いはずだ」
アオも中へ入った。床も壁も落ち着いた白で統一されている。余計な飾りはないが、殺風景というほどでもない。必要なものが、必要な場所にだけ置かれていた。
「生活に必要なことは大体ここでできる。調理も可能だ。自分でやるなら材料を注文しろ。食堂の方が選べるものは多いが、この部屋からでもある程度は頼める」
机の端に、シェイラから使っていた通信端末が置かれているのが見えた。荷物と一緒に、先に運ばれていたらしい。
「家族との通信も可能だ。ただし事前申請は必要になる。この部屋で繋げる」
続けて奥の扉へ視線を向ける。
「風呂もある。自由度はこれから格段に増える」
そこで一度だけ言葉を切った。
「その分、自覚を持て」
短い声音だったが、命令というより確認に近かった。
お前はもう、ただ世話をされるだけの立場ではない。そう言われた気がした。
アオは小さく頷く。
「……はい」
「今日は休め。明日、定刻に迎えに来る」
必要なことだけを告げると、カゲツはそれ以上何も足さなかった。
「何かあれば呼べ。だが、よほどでなければ明日でいい」
「分かりました」
カゲツが出ていき、扉が静かに閉まる。
途端に、部屋の静けさが一気に広がった。
誰にも見られていないと分かった瞬間、身体の力が少し抜ける。アオはその場で息を吐き、近くの椅子に腰を下ろした。
疲れた。
訓練場ではまだ頭が先に動いていたが、止まってしまうと駄目だった。脚が重い。喉も乾いている。肩も背中も熱を持ったまま、鈍く張っている。
けれど、不思議と嫌な疲れではなかった。
できなかったことが、最後に一つだけ通った。その感触が、身体の奥にまだ残っている。
アオは机に肘をつくでもなく、しばらく座ったまま部屋を見回した。広い。静かで、余計なものがない。前の部屋よりも、ここではやれることが増えるのだろう。
その分、自覚を持て。
さっきの言葉だけが、妙に残った。
自由になる、ということは、勝手にしていいという意味ではないらしい。自分で決めて、自分で整えて、自分で失敗しないようにしろ、ということなのだろう。
アオはゆっくり立ち上がった。
今日はもう何も考えたくなかった。明日のことは明日でいい。
確か、前に焼いた白パンがまだ残っているはずだ。あれを少し食べて、風呂に入って、すぐ寝よう。
そう決めると、それだけで少し気が楽になった。
アオは荷物を開き、包みを探した。白い生地の感触が指先に触れる。ちゃんと残っている。
小さく息をついて、それを手に取った。
翌朝、迎えに来たカゲツに連れられて、アオは再び施設の奥へ向かった。
通された部屋は、執務室だった。
広いが、飾りは少ない。整えられた机、必要なだけの書類、壁際の棚。窓から入る光さえ、きっちりと部屋の輪郭をなぞっているように見える。
机の向こうに、トウカが座っていた。
アオが立つと、トウカは書類から視線を上げる。
「昨日は見せてもらった。改めて歓迎する、碧殿」
「我らヴォルタ家は、英雄に連なる家だ。だが、この千年、貴殿のような者は現れなかった」
まっすぐにアオを見る。
「碧殿が魔法の目を持つのなら、それだけで意味がある」
「同時に、今の貴殿は守護特務官教育生でもある。まだ教育の途中だ。責任は、現時点では我々にある」
そこで一度、わずかに間を置く。
「だからこそ、遠慮はいらない。思い切って試せ。貴殿の能力は、存分に伸ばしていけばいい」
「……はい」
短く返すと、トウカは小さく頷いた。
「この後、カゲツに能力確認を行わせる。報告は受けているし、昨日の動きも見た。総合的な適性については、すでに把握している」
だが、と続ける。
「魔法の目が開いているわけでもないのに、年相応を外れた力を持っている。それを曖昧なままにはしておけない。現時点での魔法出力、世界への干渉力の強さを記録する」
その言い方に、拒否の余地はなかった。けれど、押しつけがましさもなかった。ただ必要だからやる。それだけの口調だった。
「行ってこい」
「はい」
アオは一礼し、カゲツとともに部屋を出た。
連れて行かれた先は、昨日とは別棟の奥にある小部屋だった。
中に入って、アオはわずかに目を細める。
似ている。
何もない部屋の中央、空中に立方体が浮かんでいた。継ぎ目もなく、光だけを鈍く返す箱。
以前、教育機関で魔法の測定に使っていたものと、ほとんど同じに見える。
「普段通りでいい」
カゲツが言った。
「順に出せ。最大を取る」
アオは頷き、中央に立つ。
箱へ向けて手をかざす。呼吸を整え、意識を絞る。慣れた感覚だった。力の流れを確かめ、ぶれない位置を探し、放つ。
光が走る。
立方体の表面に数字が浮かび、すぐに消えた。
もう一度。さらにもう一度。
角度を変え、出力の乗せ方を微妙に調整しながら、何度か繰り返す。
最後の一撃が吸い込まれるように箱へ入ったあと、空中に数字が定着した。
83。
アオはその数字を見上げた。
前より上がっている。それは分かる。
けれど、正直なところ、それがどれほどのものなのかはよく分からない。QEUと言われても、未だに実感がない。ただの数字にしか見えなかった。
「終わりだ」
カゲツが前へ出る。
表示を確認したあと、視線を外さずに言った。
「最大値は八十三」
声色は変わらない。だが、昨日までより少しだけ硬い。
「カルドライン環境下の魔法体系において、ここシェイラにおける八十三は異常だ。」
アオは黙って聞いた。
「一般人類なら、訓練を積んでも一定の才能がなければ到達しない水準だ。世界への干渉能力として見ても高い」
そこで、カゲツは一度だけ表示された数字を見直した。
「ここではなく、外界環境で同質の出力が安定すれば、さらに大きく跳ねる可能性がある。数倍で済まないかもしれない。外界各国の黒獣対応級の部隊が対応する可能性すらある」
言われている意味は分かった。
だが、実感は遅れてやってくる。
アオは、自分の手を見た。昨日、札を掴み、壁を切り、必死に逃げ回った手だ。今朝、扉を開け、服を整え、ここまで歩いてきただけの手でもある。
それが、そこまで言われるものなのか。
うまく繋がらないまま、指先だけが少し強張った。
カゲツはそんなアオを見て、淡々と続けた。
「お前が力を持つこと自体は罪じゃない」
「だが、ここで教えるのは、強くなる方法だけじゃない。使いどころを見誤らず、生きて戻る方法だ」
静かな部屋に、その言葉だけがはっきり残る。
「力は、使い方次第でどうにでも変わる。油断するな。見誤るな」
アオはゆっくり息を吸った。
「……はい」
返事をすると、カゲツは短く頷く。
「この後、トウカ様から改めて話がある」
それだけ告げて、出口へ向き直った。
アオはもう一度だけ、空中に浮かぶ数字の残像を見た気がして、すぐに視線を外した。




