第六十二話 鬼ごっこ
足音が、乾いた床を短く打った。
低い壁の角をかすめ、柱の陰へ身体を滑り込ませる。ひとつ、ふたつ。視線を切るたびに呼吸が荒くなる。
それでも止まれない。三つ目の回収地点は、もう目の前だった。
届く。
そう思った瞬間、背後の気配が一気に近づいた。
まずい、と振り向くより早く、肩口を掴まれる。
勢いのまま半歩よろめき、アオはそこで止められた。
「碧、その経路じゃ俺は届く。やり直しだ」
アオは息を切らしながら、掴まれた腕を見た。
大きい。指一本分の力まで、子供のそれとは違う。これで何度目だろう。数えるのは途中でやめた。
「……はい」
返して、膝に手をつく。肺が熱い。喉の奥がひりつく。足ももう軽くはなかった。
基礎教育は終わった、と告げられたのは数日前だったか。
次の段階に入る、とだけ言われて、新しい区画へ連れて来られた。挨拶もそこそこに始まったのが、これだ。
ずっと鬼ごっこ。
いや、見た目がそうなだけだ。
ただ逃げる訓練じゃない。
追われながら、決められたものを回収して、持ち帰る。
撤収の訓練だ。魔法は禁止。相手は大人。正面からの脚力勝負でどうにかなるはずがない。
勝つ方法があるとすれば、走る速さじゃない。
相手の動きを読むこと。自分をどう見せれば、相手がどう動くかを先に決めること。
考えた通りに身体を動かしながら、逃げ切ること。
そこまで分かっているのに、最後で潰される。
二つ目までは行ける。問題は三つ目だ。
残り一つになると、どこへ向かうかが読まれる。
遠くへ逃げようとすると、その分だけ歩幅の差が効いてくる。
広く使おうとした瞬間に、追いつかれる。さっきもそうだった。
真正面から抜こうとしたのが悪い。
距離を取ろうとしたのも悪い。
この訓練場は広く見えて、広くない。柱と低壁と短い通路で区切られているのに、行き止まりはほとんどない。
その代わり、一瞬だけ視線が切れる場所がいくつもある。
だったら、遠くへ逃げるんじゃない。
近くで外す。
捕まりそうな距離まであえて寄せて、相手に最短を踏ませる。
その最短だけを、壁一枚、柱一本で切り続ける。
アオは顔を上げた。
少し離れた位置で、カゲツがこちらを見ている。追ってきた直後だというのに、息の乱れはほとんど見えない。
アオはゆっくり息を吸い、吐いた。焼けるような肺の痛みが、少しだけ引く。
次は、遠くへ逃げない。
もう一度、最初から組み立てる。
「もう一回、お願いします」
そう言うと、カゲツは短く頷いた。
「始めろ」
アオは足の向きを変えた。
今度は、走り方から変える。
――ここに来たのは、今朝のことだ。
朝食を食べ終え、移動の準備を済ませ、フジワラの執務室に通されてすぐだった。
控えめなノックのあと、扉の外から低い声がした。
「失礼します。評議会附属国防事務局、訓練担当のカゲツです。碧殿をお預かりに参りました」
入ってきたのは、若い男だった。まだ三十には届かないくらいだろうか。
フジワラは姿勢を変えずに、カゲツへ視線を向けた。
「確認は済んでいます。碧殿をお預けします」
「ヴォルタ殿には、くれぐれもよろしくお伝えください」
「承知しました」
カゲツが一礼する。
フジワラはそのままアオへ向き直った。
「碧殿。先日お伝えした通り、次の課程、実運用を見据えた訓練に移ります」
「……はい」
短く返して立ち上がる。
カゲツはアオを急かしもしなければ、愛想よく話しかけてくることもなかった。
ただ一歩だけ先に立ち、こちらがついてくることを疑っていない歩幅で廊下へ出る。
執務室がある行政区画を抜けた先にあったのは、壁と屋根に覆われた細い連絡路だった。
外の景色はほとんど見えない。白い壁と淡い光に満たされていて、どこを通っているのか分かりにくい。
途中で、カゲツが連絡路の脇に足を止めた。
床の一部が、わずかに色が違う。
その上に立つよう促される。
足を乗せた瞬間、身体が軽くなった。浮いている。
「掴まっていろ」
それだけ言って、カゲツも横に立つ。
次の瞬間、足元ごと前へ滑り出した。
速い。なのに揺れがほとんどない。風も思ったほど当たらず、景色だけが壁の向こうを曖昧に流れていく。
歩いているのでも、走っているのでもない。地面の方が動いているような感覚だった。
十五分ほどだったと思う。
足元の感覚が戻り、静かに止まった。
降りた先にあったのは、高い塀に囲まれた白い施設だった。
中は見えない。窓らしい窓もなく、壁面は妙に均一で、継ぎ目すら目立たない。
威圧するための建物には見えないのに、人を自由に出入りさせる場所でもないとすぐ分かった。白く、静かで、生活の気配が薄い。
門を抜け、さらに中へ入る。
通された先で、アオは少しだけ目を細めた。
庭園のように整った空間だった。
柱があり、低い壁があり、短い通路があり、外周には回廊が巡っている。
どれも美しく配置されているのに、休むための庭には見えなかった。
壁の高さも、柱の位置も、通路の幅も、きれいすぎるほど揃っている。遊び場ではない。何かを試すための場所だ。
「よく見ているな」
不意に声が落ちてきた。
アオが顔を上げると、回廊の先に一人の女が立っていた。
年齢はよく分からない。若く見えるのに、纏っている空気がそう見せない。
視線は冷たくはない。だが、最初から余計なものを切り捨てているような鋭さがあった。
「評議会附属国防事務局長官、ヴォルタ・トウカだ」
女はゆっくりと名乗った。
「ヴォルタ家第十五代当主でもある」
そこで言葉を切り、まっすぐアオを見る。
「報告は受けている。だが、私はまだ自分の目で見ていない」
声は淡々としていた。脅しというより、事実確認のような口調だった。
そのままトウカは視線を外し、カゲツへ向ける。
「始めなさい、カゲツ」
「承知しました」
カゲツが一歩前へ出る。
「早速だが、これから訓練を行う」
「ルールは単純だ。三点に置いてある札を回収し、開始位置まで戻れ。戻れたら勝ちだ」
そう言って、訓練場の三方へ視線を流す。
低壁の陰、回廊の端、柱の奥。小さな札のようなものが、目立たない位置に置かれているのが見えた。
「俺は自分から探しには行かない。お前を見失ったら、規定位置へ戻る」
続けて、カゲツは中央寄りの床へ顎をしゃくった。そこが起点なのだろう。
「見つけたら捕まえに行く。だが、回収物の前とゴール前で待ち伏せはしない」
そこで一度だけ間を置く。
「碧、お前は魔法禁止だ」
「魔法については別の課程で扱う。この訓練では使うな」
庭園のような訓練場に、静けさが落ちた。
アオは三つの回収地点を見た。次に、低壁と柱と回廊の位置を見た。
広く見えて、逃げるには広すぎない。隠れられそうで、隠れ切れるほど甘くもない。
カゲツが短く言う。
「質問はあるか」
アオは首を横に振った。
「ありません」
「なら始める」
カゲツは中央へ戻り、アオへ視線を据えた。
「走れ」
それが、数時間前のことだった。
そして今、アオは三つ目の札の前で、また捕まっている。
そこからは、同じことの繰り返しだった。
一つ目を取る。
二つ目を取る。
そこまでは行ける。
だが、三つ目に手を伸ばそうとした途端、カゲツが来る。
低壁の端で切り返しても、柱の陰へ滑り込んでも、最後の行き先だけは隠しきれない。
残りが一つになった瞬間、盤面が急に狭くなる。遠くへ逃げれば逃げるほど、相手の歩幅の大きさがそのまま差になる。
捕まる。
戻る。
また走る。
呼吸は荒れ、喉は乾き、ふくらはぎがじわじわ熱を持っていく。
「碧、広く使いすぎだ」
次は回廊へ逃げた。
追われながら一つ目を回収し、柱を挟んで二つ目へ滑る。
そこまでは悪くない。だが、最後で距離を取ろうとした瞬間、横から伸びた腕に肩を押さえられた。
「遠くへ逃げるな。読まれてる」
また戻る。
次は早めに内側へ寄せた。柱をひとつ多く使い、低壁の切れ目で一瞬だけ視線を切る。
だが、三つ目を目の前にしたところで、今度は正面に回り込まれる。待ち伏せではない。
ただ、見えた瞬間に最短で詰めてきただけだ。
それで十分、間に合ってしまう。
アオは息を吐きながら開始位置へ戻った。
何度も走るうちに、分かってくることがある。
カゲツは無駄に追わない。
見失えばルール通りすぐに戻る。
けれど、見つけた瞬間は迷わない。最短で来る。
大人の脚で、ためらいなく、こちらの逃げ道を潰す線を踏んでくる。
だから、逃げ切るんじゃない。
外し続ける。
遠くへ離れるんじゃなく、捕まりそうな近さでずらす。
相手に最短を選ばせて、その最短だけを柱一本、壁一枚で切る。
正面から競争しない。進路を読ませた上で、その一歩を半歩ずらす。
答えが見え始める。
けれど、身体がついてこない。
足は重くなり、切り返すたびに遅れが出る。
考えた通りに動けるのは、ほんの一瞬だけだ。その一瞬が足りず、何度も掴まった。
何本目かも分からなくなった頃、アオは膝に手をついて息を整えた。
肺が焼けるようだった。汗が頬を伝い、顎から落ちる。
それでも、今度はいける気がした。
「……もう一回」
顔を上げると、カゲツは短く頷いた。
「始めろ」
床を蹴る。
一つ目は回廊の端。最短で取れる場所だが、そこで速さを使わない。
低壁の影へ流れ込み、振り返らずに札を掴む。そのまま中央へ戻らず、柱の外を薄く回って二つ目へ向かった。
二つ目も取る。
呼吸が浅い。胸が痛い。けれど、脚はまだ切れる。
残るは三つ目だけ。
そこでアオは、わざと柱の陰から半身を出した。
一瞬だけ、自分の位置を見せる。
来る。
そう思った通り、カゲツが動いた。迷いのない足運びだった。三つ目とゴールの間を切るように、最短で詰めてくる。
そこだ。
アオは三つ目へ真っ直ぐ走らない。柱一本分だけ進路をずらす。
外へ逃げるように見せて、低壁の切れ目に滑り込む。視線が一拍切れる。その半拍で、三つ目の札を掴んだ。
すぐ後ろで足音が弾む。
追いつくつもりの踏み込みだ。
けれどアオは、そこでようやく遠くへ逃げるのをやめた。
低壁の端をかすめるように身体を返し、回廊の角へ潜る。
距離を離さない。近いまま、届きそうな位置にいるまま、進路だけを一つずつずらす。
カゲツの気配がすぐ背に迫る。
手が伸びる。
その瞬間、アオは半歩だけ沈んだ。予想より小さく身体を畳み、柱の内側へ鋭く切り返す。
空を切った指先が、ほんのわずかに背を掠めた。
届かない。
その一拍で、ゴールまでの線が開く。
アオは最後の力を振り絞って床を蹴った。足がもつれる。視界が揺れる。
それでも倒れるより先に、開始位置の印へ飛び込む。
そのまま膝をつき、両手を床についた。
荒い呼吸だけが耳にうるさい。喉の奥で息が擦れ、胸が上下するたびに熱が走る。
「……やっと、できた」
前に影が落ちた。
カゲツが立っていた。
いつものように表情は動かない。けれど、すぐには次の言葉が出なかった。
わずかに息を飲んで、それから事実だけを置くように口を開く。
「……初日で通すか。掴むのが早い」
その声に、別の足音が重なった。
回廊の奥からトウカが姿を見せる。最初から見ていたのかもしれない。
乱れのない足取りで近づき、床に手をついたままのアオを見下ろした。
「いい」
短い一言だった。
それだけで、通過の判定だと分かる。
トウカは続けた。
「初日でここまでできれば十分だ。これなら次へ行ける」
アオは息も整わないまま、どうにか顔を上げた。汗が目に入って、少し滲む。
トウカの視線は変わらず静かだった。




