第六十話 ナイラのお別れ
シェイラの上空には、複数の宙舟が並んでいた。
アウレア連邦の一団が乗船している船団だ。
光が空から降る。
塔が伸びる。
まっすぐではなく、少しだけ曲線を含んだ線で、街が空へ向かって立ち上がっている。
違うのは、見上げるナイラの目の方だった。
最初に来た時は、ただ異質だった。
広すぎて、整いすぎて、どこを見ても自分の知っている街と噛み合わなかった。
でも、今は違う。
(……来た)
期間の終わりが、形になって見えていた。
嬉しい、のだと思う。
ちゃんと終えられたこと。
迎えが来たこと。
帰れること。
その全部が、確かにそこにある。
それでも、同じ重さで別の感覚も沈んでいた。
しばらく待つと、控えめなノックの音がした。
「ナイラ様」
聞き慣れた声に、肩の力が少し抜ける。
「はい……入ってください」
扉が開き、エリスが入ってきた。
一年ぶりだった。
顔を見た瞬間、ナイラはようやく、自分がずっと少し張っていたのだと気づいた。
エリスは変わらない。立ち方も、声の落ち方も、視線の置き方も。
見慣れたはずのそれが、今日は妙にあたたかかった。
「お迎えに上がりました、ナイラ様」
「久しぶりです。エリス」
ナイラは少しだけ口元を緩めながら返す。
エリスも、わずかに目を細めた。
「……お元気そうで、安心いたしました」
「そう見える?」
「はい」
迷いのない返答だった。
ナイラは、自分の袖口を軽く撫でた。
「ええ。かなり、です」
エリスはいつも通り穏やかな顔をしていたが、その目だけが、前よりも柔らかかった。
「こちらへ来られた頃は、常に肩に力が入っておいででした」
「今は……無理をして立っている感じが、かなり薄くなりました」
「前よりもずっと、呼吸が自然です」
少しだけくすぐったい。
「……見すぎよ、エリス」
「長くお仕えしておりますので」
さらりと返されて、ナイラは小さく息を吐いた。
でも、そのやり取りが心地よかった。
帰ってきた、というより、戻ってきた感覚に近い。
その夜、送別も兼ねた席が設けられた。
一年前と、同じように。
明るい灯り。
広い会場。
整えられた卓。
礼装の人々。
ナイラも、来た時と同じように着飾っていた。
濃い色の生地は肩から真っ直ぐ落ち、胸元と裾にだけ控えめな刺繍が入っている。
過剰ではない。けれど、立てば線がきれいに出る。
髪も整えられ、耳元には小さな飾りが揺れていた。
鏡の前で見た時、最初に思ったのは懐かしさだった。
あの夜も、こうして整えてもらった。
強く見えるように。
弱く見せないように。
でも、今は少し違う。
「とてもお似合いです、ナイラ様」
エリスが背後からそう言って、襟元を整える。
ナイラは鏡の中の自分をもう一度見た。
「……変じゃない?」
「ええ。とても」
「それ、どっち?」
「もちろん、良い意味でございます」
ナイラは、ほんの少しだけ笑った。
会場へ入る。
視線が集まるのは分かる。
でも、一年前ほど身体は強張らなかった。
宙舟で到着した時は、空気も重力も、視線の数も、全部が一度に来た。
今日は、どれも知っている。
他に違うのは――
この場に、アオがいないことだった。
ナイラは会場を見渡して、ほんの一瞬だけその不在を確かめる。
いない。
ナイラはそのまま視線を戻し、前を見る。
今は、挨拶をする場だ。
「ナイラ殿。この一年、よくやり遂げられました」
「お綺麗になられましたね」
「最初の頃とは、表情がかなり違いますな」
「研究のまとめも見事でした。アウレア待つ方々もお喜びでしょう」
声がかかるたび、ナイラは足を止め、礼を返した。
「ありがとうございます」
「お世話になりました」
「光栄です」
言葉は短い。
けれど、一年前より詰まらない。
少し離れたところで、マキ先生がこちらを見ていた。
ナイラが近づくと、マキ先生はわずかに目元をやわらげた。
「改めて、お疲れさまでした。ナイラさん」
「……ありがとうございます」
「あなたは、芯が強いです」
まっすぐな言葉だった。
「途中で上手くいかないことが続いても、投げませんでした」
「焦っても、崩れ切らなかった。諦めずに粘り続けた」
ナイラは、一瞬だけ視線を落とす。
あの紙の束。
同じような数値。
同じような失敗。
整えても整えても揃わない日々。
思い出せば、奥の方で何かがかすかに熱を持つ。
「担当させていただけて、光栄でした」
そこで、ほんのわずかに間があく。
「……帰られるのは、少し寂しくなりますね」
その最後の一言だけ、声の温度が少し変わった。
ナイラは、顔を上げた。
「……はい」
返事が少し小さくなる。
「私も……その」
続きを言おうとして、うまく言葉がまとまらない。
嬉しい。
でも、それをそのまま口にすると、子どもっぽい気がした。
結局、言えたのはこれだけだった。
「とても、お世話になりました」
マキ先生は小さく頷いた。
「ええ。こちらこそ」
そのやり取りのあと、ナイラは少しだけ会場の端へ下がった。
グラスを持つ手に、力が入りすぎていないのを確かめる。
呼吸も浅くない。
エリスが、横に静かに並んだ。
「お疲れですか」
「少しだけ」
「ですが、良いお顔をされています」
ナイラは、眉を寄せる。
「さっきから、そういうことばかり言うのね」
「本当のことですので」
ナイラは困ったように視線を逸らし、それから、ほんの少しだけ笑った。
照れているのは自分でも分かる。
頬が少し熱い。
でも、嫌ではなかった。
会場の灯りの向こうで、見慣れた街が静かに息をしている。
来た時は、ただ圧倒された。
今は、その中に、自分が一年いたのだと分かる。
ナイラはグラスを胸の高さで持ったまま、ゆっくりと息を吸う。
帰るのだ。
ちゃんと、持ち帰るものがあるまま。
その夜、部屋は静かだった。
ベッドに腰を下ろすと、背後で布がかすかに鳴った。
「……お加減はいかがですか」
エリスが、少し距離を取った位置から声をかけてくる。
来た日の夜と同じ言葉だった。
ナイラは、そのことに気づいて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「ありがとう。大丈夫」
嘘ではない。
今夜は、本当にそう言えた。
しばらく、窓の外を見たまま、沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは、エリスだった。
「……ナイラ様。良かったですね」
ナイラは視線だけを向ける。
「想定の実験が成功したことではありません」
声は穏やかで、けれど曖昧ではない。
「こちらへ来られた頃のナイラ様は、ご自分で思っておられる以上に、背伸びをして」
「無理をなさっても、それを無理と認めずに立っていらした」
ナイラは黙って聞いていた。
否定しようと思えば、できる。
でも、それをすると、今夜は少しだけ違う気がした。
「ですから……いつか線が切れてしまわないかと、心配しておりました」
エリスの視線は静かだった。
「ですが、今は違います」
一拍置いて、
「余裕ができました」
「受け取れるものが、以前よりずっと増えておいでです」
ナイラは、膝の上に置いた手を見る。
褒められているのだと分かると、少し落ち着かない。
けれど、嫌ではなかった。
「……ありがとう」
声は自然に出た。
エリスは何も言わず、続きを待つ。
「このまま戻ったら、成果をみんなに報告するわ」
「それで、改良を進める」
ナイラはゆっくり言葉を置いていく。
「地方にも、ちゃんと医療が届くようにしたいの」
「まだこのままでは使えないし、危険な事があることをみんなにも伝えないといけないし、外での条件も詰めないといけないし……忙しくなると思う」
言いながら、頭の中にはもう帰国後の流れが並び始めていた。
やることは多い。
でも、嫌ではない。
「だから……これからも、よろしくね」
エリスは目を伏せ、静かに一礼した。
「はい。こちらこそ」
それだけの返答なのに、十分だった。
ナイラは再び窓の外を見る。
「ここでの空気も、重さも、もう慣れたわ」
独り言のように言う。
「来たばかりの頃は、何をするにも少し違ったのに」
「今は、歩くのも、起きるのも、もう普通」
エリスは小さく頷いた。
「慣れてしまえば、それが当たり前になりますね」
「ええ。でも――」
ナイラは言葉を切った。
窓の外には、相変わらずあの光がある。
街のどこを見ても、整いすぎているほど整っていて、部屋の隅では小さなものが音もなく動く。
「あの光が何なのかは、結局最後までよく分からなかった」
「不思議なことばかりだったし、いろんなレリックも、見れば見るほど分からなくなる感じだった」
来た日の夜も、似たことを思った。
あの時は、ただ異質だった。
今は違う。
異質なまま、見慣れたものになってしまった。
「分かったつもりになったら、たぶん違うのよね」
「でも、分からないままでも、ここはちゃんと動いている」
エリスは否定しない。
「はい」
ナイラは、少しだけ息を吐く。
「……アオも、そうだったわ」
エリスのまなざしが、わずかに動く。
「最後まで不思議なまま」
「何を知っていて、何を知らないのかも、時々よく分からなかったし」
「たまに、年齢よりずっと遠くにいる感じがした」
言ってから、ナイラは自分の言葉を確かめるように黙る。
「でも」
その続きを、自分で拾う。
「周りをよく見てるのは分かった」
「優しいのも」
少しだけ視線が落ちる。
「それに……中身も、全部じゃないけど」
「前よりは、知れた気がするの」
エリスは、静かにその言葉を受け止めた。
「左様でございますか」
「うん」
短く答えてから、ナイラは膝の上の指先を組み直した。
少しだけ迷う。
でも、口にしないまま帰るのは違う気がした。
「エリス」
「はい」
「帰る前に、アオに何か返したいの」
声は小さかったが、はっきりとしていた。
「でも……こういう時、何をしたらいいのか、あまり上手く分からなくて」
ナイラは、そこでようやくエリスを見る。
「何か、できるかしら」
エリスはすぐには答えなかった。
考えているのではなく、ナイラが本気でそう言ったことを、静かに受け止めているようだった。
窓の外の光は、今夜も変わらず一定だった。
その明かりの中で、エリスがゆっくりと口を開いた。
「……ご相談に乗ります」




