第五十九話 ナイラのお礼と戻ってきた日常
次の風三曜日
ナイラは、マキ先生と並んで廊下を歩いていた。
窓の外は明るいのに、心の中は暗く重い。
足を止めたいわけではない。
でも、近づくほど息が浅くなる。
「大丈夫?」
隣から、マキ先生が小さく声をかける。
「……はい」
返事は出来た。
出来たけれど、指先は少し冷たかった。
案内された部屋の前で、マキ先生が一度だけナイラを見る。
それから、扉を軽く叩いた。
「はい。どうぞ。」
中から聞こえたのは、聞き慣れた声だった。
部屋に入ると、アオは椅子から立ち上がった。
前に会った時と何も変わっていないように見えるのに、それだけで苦しくなる。
「……ナイラ」
名前を呼ばれて、ナイラはようやく顔を上げた。
「その……」
先に口を開いたのは、アオの方だった。
「迷惑、かけたかもしれない」
そんな軽い話じゃないと分かっていた。
けれど、他に言い方が見つからなかった。
少しだけ視線が逸れる。
「そんなことない」
思ったより強い声が出た。
アオが目を瞬かせる。
ナイラは、そこで一度息を吸った。
言いたいことが多すぎて、うまく並ばない。
「そんなこと、ないわ」
今度は、少しゆっくり言う。
「実験も……アオのおかげで、ちゃんと先に進めたの」
「最後だって、私は何が起きたのか分からなかった。気づけなかったし、止められなかった」
握った手に力が入る。
「だから……助けられたの」
部屋の中が、少し静かになる。
アオは何も言わなかった。
ただ、まっすぐこちらを見ている。
ナイラは、その視線から逃げないようにした。
「本当に、ありがとう」
頭を下げる。
きれいな言葉じゃなかった。
足りない気もした。
でも、まずそれだけは、ちゃんと自分の口で言いたかった。
少し遅れて、衣擦れの音がした。
アオが、慌てたように小さく首を振る気配がする。
「……礼を言われるほどじゃないよ」
「言うわ」
ナイラは顔を上げた。
「言わせて」
そう言ったあとで、声が少しだけ揺れた。
それでも、もう逸らさなかった。
マキ先生は、そのやり取りを何も挟まずに見守っていた。
急がせることも、整えることもせず、ただそこにいた。
黙ったままではいられなかったものを、ようやく外に出せた気がした。
それで気持ちが片付いたわけではない。
なくなったわけでもない。
けれど、その輪郭だけは、前より少しはっきりした。
そして、アオとの間に引かれた線が、なくなったわけではないと、すぐに思い知らされた。
アオにお礼を言えてから
昼の食堂へ向かう時間が、少しだけ変わった。
ナイラが部屋を出る頃には、もうアオは食べ終えていることが多い。
逆に、授業の移動の途中で顔を合わせることはあった。
「こんにちは」
「……うん、こんにちは」
それだけだ。
立ち止まるほどではない。
けれど、まったく会わないようにされているわけでもない。
その半端な距離が、かえってはっきりしていた。
夕方の散歩も同じだった。
以前、よく足を向けていた運動場の方へは、特に理由がなければ行かないよう職員から伝えられた。
強い口調ではないけれど、そこに線が引かれていることは分かる。
ナイラは頷いて、それを受け入れた。
受け入れたが、慣れたわけではなかった。
その分、手は実験へ向かった。
記録を見返す。
条件を揃える。
組み直す。
測る。
もう一度、測る。
あの日の結果自体は、再現できた。
少なくとも、出力の伸び方、ズレがどこでどうやって消えるかまでは整理できる。
紙の上でバラバラだったものが、一つずつ並んでいく。
ナイラは、その感触を確かに掴んでいた。
けれど、あの時の暴走だけは再現しなかった。
数値は近い。
条件も近い。
それなのに、あの時のような異常な跳ね方にはならない。
危険域の手前で、どこかが噛み合わずに止まる。
(……何が違ったの)
何度考えても、そこだけが曖昧に残った。
細かな調整を重ね、期間の終わりが見え始めた頃だった。
いつものように、音を聞いていた。
回転の癖。
負荷の乗り方。
唸りの高さ。
その日は、最初は何も変わらなかった。
なのに、ほんの一瞬だけ、音がずれた。
高くなった。
滑る、というより、軽くなりすぎたような音だった。
ナイラが顔を上げるのと、マキ先生が動くのは、ほとんど同時だった。
「触らないで。私が止める!」
緊急停止の操作が入る。
装置の外側の反応は落ちる。
けれど――止まらない。
「……え」
回転が、鈍くなりながらも続いていた。
内部のどこかだけが、まだ勝手に回っているみたいに。
ナイラは息を詰めた。
耳の奥で、残響みたいな音が続く。
止めたはずなのに、まだ終わらない。
しばらくして、ようやく回転が落ち切った。
静かになる。
その静けさのあとで、異臭が立った。
金属の焼ける匂い。
焦げた被膜の匂い。
熱を持ちすぎた何かが、遅れて壊れた匂いだった。
装置のそばへ寄ると、金属枠の一部がわずかに歪んでいた。
細い固定具の周辺が黒く焦げ、軸受けのあたりには焼け跡が出ている。
さっきまで滑らかだったはずの部位が、熱にやられて色を変えていた。
「……すぐ止めた、のに」
ナイラの声は、自分でも思ったより小さかった。
マキ先生は装置全体を確認しながら、短く言う。
「止めたから、この程度で済んだの」
その言葉の意味が、遅れて落ちた。
この程度で済んだ。
もし、気づくのがもう少し遅かったら。
もし、あの日と同じように止め損ねていたら。
ナイラの背中を、冷たいものが這った。
(……もし、あの時に止めていなかったら)
視線が、焦げた金属に吸い寄せられる。
(もし、あの時にアオがいなかったら)
喉が、ひどく乾いた。
何が起きていたのか、正確にはまだ分からない。
でも、分からないままでも、一つだけはっきりしたことがある。
自分は、あの時、本当に助けられていたのだ。
装置は、その日のうちに使用停止になった。
完全な破壊ではない。
だが、すぐに再開できる状態でもなかった。
記録は残った。
成果も残った。
ここまでで見えたことは、決して少なくない。
むしろ、来た目的だけでいえば、十分すぎるほどだった。
それなのに、達成感は来なかった。
先に満ちたのは、強い寂しさだった。
理由は、うまく分からない。
ただ、ここの生活終わるのだと思った途端に、身体の内側から、すうっと熱が引いていった。
もう帰る。
来たばかりの頃は、いつ帰れるのかばかり考えていた。
空気は重いし、光は分からないし、何もかもが違っていた。
早く慣れたい、早く終わりたいと、そればかり思っていたのに。
今は、終わりが見えたことが、少しも嬉しくなかった。
ナイラは、壊れた装置の前で立ち尽くしたまま、指先をそっと握った。
何を置いていくことになるのか。
何を持って帰ることになるのか。
まだ、自分でも分かっていなかった。




