第五十六話 手助けの成果
実験室には、朝の静けさがそのまま残っていた。
作業台の上には、薄い布に包まれた小さな束が置かれている。
その前に立つマキ先生が、ナイラへ視線を向けた。
「昨日ね、アオさんにこの道具を調整してもらったの。私たちが立ち会ってね」
「部材の揺れが、だいぶ落ち着いた感じがする。回してみないと分からないけど
――アオさん、一生懸命やってくれてたわよ」
そこで、マキ先生は小さく笑った。
「よかったね。ナイラさん」
ナイラは差し出された包みを、両手で受け取った。
見た目は、昨日までのものとほとんど変わらない。
薄い板。輪の金具。小さな部品。
それだけだ。
でも、指先に伝わる重みが違って感じた。
形は同じなのに、手が離せなくなった。
(……調整してくれたんだ)
(私のために、時間を使って)
自分の課題だ。
自分で進めるべきものだ。
そう思って、ここまでやってきた。
それでも――足りないところに、手を貸してくれる人がいた。
その事実は、思っていたよりずっと大きかった。
ナイラは包みを見下ろしたまま、息を整える。
「……はい」
声が、少しだけ弾んだ。
「ありがとうございます」
マキ先生は頷き、作業台を見た。
「今日は、まず昨日の調整がどう出るかを確認しましょう」
「焦らなくていいから、基準を取り直して、順に見ていきましょう」
「はい」
昨日までより、ずっと軽い。
ちょうどその時、扉の外から足音が近づいた。
ノックのあと、開いた扉の向こうにロッド先生が立つ。
その後ろに、アオの姿もあった。
「よう、マキ、ナイラ。今日も頑張ってるか」
いつもの調子だった。
アオは一歩入って、まずナイラを見た。
それからマキ先生へ向き直る。
「おはようございます。マキ先生」
「おはよう。ナイラ」
「マキ先生、昨日の道具は、ナイラに渡していただけましたか?」
マキ先生は、ちょうど今そうしたところだと示すように、ナイラの手元へ視線を落とした。
「おはようございます、アオ殿」
「ちょうど、ナイラさんに渡してこれから試験を始めるところでした」
アオは短く頷いた。
「よかった」
ナイラは包みを抱え直し、二人の方をまっすぐ見た。
「はい。これから、もう一度試験を行います」
それから、どうしても言っておきたくなって、言葉が続いた。
「皆さん、私のためにいろいろ協力してくれて、ありがとうございます!」
声が、思っていたより大きく出た。
部屋の中に、はっきり響く。
ロッド先生が片眉を上げる。
マキ先生は何も言わないが、口元だけがわずかに動いた。
そしてアオは――
一瞬だけ目を丸くしてから、小さく笑った。
「……元気だね、今日は」
ナイラははっとして、少しだけ頬が熱くなる。
「わ、悪いですか」
「悪くない」
アオはまだ少し笑っていた。
「その方がいい」
それを聞いた瞬間、恥ずかしさより先に、嬉しさの方が勝った。
ナイラは包みを机に置き、布を丁寧に開く。
整えられた部材が、朝の光のない明るさの中で静かに並んだ。
手を伸ばす。
今日は、昨日までと違う結果が出るかもしれない。
そう思うだけで、同じ明るさのはずなのに、景色が明るく見えた。
ひとつを持ち上げ、角度を変えて見る。
見た目は、昨日までと変わらない。
それなのに、指先へ返ってくる感触だけが違っていた。
次を取る。
また次を取る。
(……あれ)
前は、何となく分かっていた。
言葉にはしにくい違いが、部材ごとにあった。
今は、それがない。
どれを手に取っても、同じ場所に戻ってくるみたいに収まる。
(どうやったんだろう)
ナイラは、小さく息を呑んだ。
(……すごい)
余計なことを考えるな。
まずは試す。
そう自分に言い聞かせながら、最後の位置を合わせた。
起動。
低い駆動音が、実験室の静けさを薄く揺らした。
ナイラは計器へ目を向ける。
条件を一つ変える。
数値が動く。
戻す。
別の条件に振る。
また動く。
昨日までのそれとは違った。
良くなったときは、ちゃんと良くなる。
悪くなったときは、ちゃんと落ちる。
途中でどこかへ逃げるような濁りが、前より少ない。
ナイラは次の条件を入れながら、喉が乾いていくのを感じた。
数字の並び方が、どこか見覚えのある形に寄っていく。
アウレアを出る前に、自分たちで何度も線を引き、こう動くはずだと話していた傾き。
その方向へ、ようやく寄ってきている。
もう一度、条件を変える。
少し上がった。
さらに詰める。
今度は、ほんのわずかに落ちる。
ナイラの指先が止まった。
(……今の)
視線を計器に固定したまま、呼吸だけが浅くなる。
もう一度、直前の条件へ戻す。
上がる。
越える。
落ちる。
背中を、何かが駆け上がった。
(もしかして)
(……境界?)
音が遠くなる。
自分の鼓動だけが、やけに大きい。
このあたりだ。
たぶん、このあたりに、良くなる側と悪くなる側の境目がある。
ずっと見えそうで見えなかったものが、目の前に薄く線を引いた気がした。
ナイラは、そこでいったん手を止めた。
このまま突っ込むな。
浮くな。
頭のどこかで、自分に言う。
息を一つ入れてから、ナイラは顔を上げた。
アオは少し離れた位置で、装置全体と手元を順に見ていた。
「……これ、すごくいい」
思ったより声が掠れた。
「境界が見えたかもしれない」
アオは計器を見て、それからナイラを見た。
何か言いかけた口が、閉じる。
マキ先生が静かに一歩寄った。
「ナイラさん。もう一度、同じ条件でやってみましょうか」
アオが小さく頷いた。
ナイラは小さく息を吐く。
「はい。分かっています」
「もう少し、続けます」
目を閉じずに、ゆっくり吸って、吐く。
手順を頭の中でなぞる。
さっきと同じ順番。
同じ確認。
同じ条件。
指先が震えていないことを確かめてから、ナイラはもう一度、装置へ手を伸ばした。
起動音。
回転。
計器の揺れ。
最初の値が出る。
次。
その次。
さっき見た位置へ戻す。
針が動き、収束する。
ナイラは息を止めた。
同じだった。
見間違いじゃない。
偶然でもない。
もう一度確認しても、数字は変わらなかった。
そこに留まっている。
(再現した)
胸が熱くなる。
視界が少しだけ滲みそうになって、ナイラは瞬きをこらえた。
計器から目を離さないまま、声だけが先に出る。
「……再現しました!」
思わず大きくなった声が、室内に響く。
「あんなに何回やっても、それっぽい数字しか取れなかったのに……」
最後の方は、少しだけ震えた。
それでもナイラは、計器から目を逸らさなかった。
今ここで逸らしたら、消えてしまう気がしたから。
マキ先生が隣へ来る気配がした。
落ち着いた足音だった。
「良かったわね。ナイラさん」
その声は、やわらかい。
「条件が見えてきたのは、あなたが今まで積み上げてきたからよ」
ナイラは唇を噛みそうになるのをこらえ、短く頷いた。
嬉しい。
でも、それだけじゃない。
ようやくここまで来た、という実感が、遅れて心の中に満ちてくる。
装置はその間も回り続けていた。
発電機の音が、細く室内を満たす。
ナイラは計器の数字を追いながら、次の条件を頭の中で組み立てていた。
マキ先生は記録板に向かい、ロッド先生は腕を組んだまま壁際に立っている。
誰も、装置を気にしていなかった。
アオだけが、音を聞いていた。
さっきより、少し高い。
回転も、どこか軽い。
滑っているのではない。
むしろ、余計な重さが急に抜けたみたいに、妙に軽快だった。
アオは装置の方へ一歩寄った。
視線だけが、止まっていた。




