第五十四話 手助けの約束
金属と油と、乾いた紙の匂いが混ざって、鼻の奥に残る。
中にいたナイラが、手を止めた。
視線がこちらへ向く。
その瞬間――瞳が、ほんの少しだけ明るくなった。
言いかけて、飲み込むように唇が動く。
「おはよう。ナイラ」
ナイラは間を置かずに返す。
「……おはよう。アオ」
アオは続ける。
「昨日の話、先生に相談してきた」
「……今日はナイラのやっている事の“見学”として同席させてもらえる」
「約束した通り、手伝いに来た」
「でも、先生の許可があるまでは手は出さない。
止めない範囲で見て、必要なら呼んで。――それでいい?」
ナイラは小さく頷いた。
手伝いに来た。
だからこそ、勝手には動けない。呼ばれるまで待つ。
マキ先生が淡々と続けた。
「本日は見学です。碧殿は、指示があるまで触れません」
「質問は可能ですが、実験の流れを止めない範囲で」
ロッド先生が肩をすくめる。
「要するに、ナイラの邪魔はすんな。アオも調子に乗るな」
「……って言うと角が立つから」
ロッド先生は一度だけナイラを見る。
「アオは飲み込みが早い。現物を見れば、何か拾うかもしれない」
「ナイラのやってることは有意義だ。共有する価値がある」
「見てるだけでも、誰かの頭の中で何かが繋がることはある。――その程度の話だ」
マキ先生も、補足のように言った。
「今後も、こういった形での見学が入る可能性があります」
「ただし成果の扱いは、当機関の規定に従います。
記録と機材は施設の管理下です。外へ出すのは、確認を通った範囲だけ」
ナイラは、数秒だけ黙った。
「……分かりました」
「……では」
ナイラは息を吸って、手元の紙束を揃えた。
「始めます」
どこか張り切っているのが分かる。
机の中央。
二つの発電機。
基準機と、改造機。
ナイラはまず、基準機の側へ行った。
棚の上に、部品が種類ごとに並んでいる。
薄い調整板、輪っかの金具(座金)、先端形の違う金属片(極靴)。
巻いた線を収める枠(保持具)と、間隔を取る小さな欠片。
紙の束は、同じ罫線の同じ形式で揃っている。
ナイラが卓上の駆動台の確認を終え、ゆっくり回転を与える。
低い唸りが、室内に薄く広がった。
ナイラは計器に目をやり、記録板へ視線を落とす。
数値を書き込む。
しばらくして、止める。
「基準は問題なし」
短く言って、次に改造機へ移る。
ナイラは紙束の上から、今日の項目を一つ選ぶ。
上から順ではない。
前回の続きの場所。
そこで、交換パーツの箱を開いた。
どれか一つ。
ほんのわずかに形が違うもの。
ナイラはそれを慎重に取り出し、指先で向きを揃える。
外して、入れて、締める。
締める順番は、さっきと同じ。
最後に、もう一度だけ端子に触れて確認する。
アオは、その手元を見ていた。
(……でも、これ全部は無理だ)
部品が多い。
組み合わせが増える。
しかも、調整は“隙間”だ。
ナイラが一度だけ当てた測定具に刻まれた数字が、目に入る。
0.1ミリ単位。
(人の手でやったら、ズレる)
(締める順番だけ守っても、押さえ方で変わる)
(揃えたはずでも、同じにならない)
昨日ナイラが言っていた言葉が、頭の中で繋がる。
変えたのに変わらない、じゃない。
変えてないのに変わる。
ナイラは改造機を回し始める。
表情を変えずに、数値を追い、紙に書く。
淡々と、同じ動作を繰り返す。
そのうち、ナイラが一度だけこちらを見た。
“どう?”と訊く目。
アオは返事をしない。
代わりに、マキ先生へ視線を向けてから、許された範囲で口を開く。
「……今、何を一番見てる?」
ナイラは、息を整えてから言う。
「出力の揺れと……温度の上がり方」
「どこが先に熱を持つか。どの条件で、出方が変わるか」
「同じ条件で繰り返したときの、値のばらつきも」
ナイラはそのまま、最後の一回を回して止めた。
紙に印を打って、鉛筆を置く。
一連の作業が、ひと区切りついた。
静かになった室内で、アオはようやく息を吐いた。
(昔、似た作業を見たことがある。
揃えて、回して、数字を残す。――気が遠くなるほど地味な作業だ)
「……すごい」
思ったまま声が出た。
「がんばってるね」
ナイラは一瞬だけ、目を瞬かせた。
今のは――少しだけ、効いた顔だった。
「……当然です」
そう言って、ナイラは紙束の端を、もう一度だけ揃えた。
アオは小さく息を吸って、短く聞いた。
「さっきの、確認していい?」
「温度って、どこを見てる。触ってるのか、計っているのか」
「……計器で正確に測っています。巻いた線のそばと、こっち――軸のそば。
そこに測温線を当てて、計器に繋いでます」
ナイラの指が二点を示す。
「で、今替えたのは……どこ?」
「こっちの部品です。……先端の形が違うやつ」
アオは更に続ける。
「薄い板――隙間を揃えるやつは、どこに入れる」
「……軸のところと、押さえの下です」
「入れ替えると、隙間が変わります」
「……その薄い板、計るために何枚か預かれたりする?」
ナイラが答えるより先に、アオはマキ先生へ視線を移した。
マキ先生は一度だけ頷いてから、言う。
「用途に条件はありますが、貸与は可能です。――施設内での検証と調整に限ります」
「ただし、予備があること。ナイラ殿の許可があること」
「貸与記録に残し、使用場所は施設内。期限内に返却。加工は監督下です」
ロッド先生が横から、いつもの調子で付け足す。
「壊すなよ。調整するなら、こっちの作業台を使え」
「勝手に持って帰るな。それだけだ」
アオは頷いた。
「分かりました。持ち出さない」
そしてナイラを見る。
「……ナイラ。予備、ある?」
「……あります」
「全部じゃなくていいなら。……同じ厚みのを、何枚か」
言いながら、棚の引き出しを開ける。
薄い板が、紙に挟まれて束になっている。
「これと、これ」
同じ札のついた束から、数枚だけ抜いた。
「ありがとう。……一、二日で見てみる」
「厚みが、少しだけズレてる気がする。
まず揃ってるか確かめて、ズレがあれば直す」
ナイラが瞬きをする。
「……直す、って」
「削るなら先生に言う。勝手にはやらない。
できたら俺から声をかける。もう一回、一緒に見てほしい」
ナイラは一度だけ視線を落として、頷いた。
「……はい」
短い返事。
でも、今度は早い。
ロッド先生が鼻で笑う。
「いいじゃねえか。やるならさっさとやれ」
アオは薄い板の束を掌で支え直し、最後にぽつりと零した。
「……あと」
ナイラが顔を上げる。
「マキ先生。次、コイル位置と座金も確認項目に入れていいですか」
「構いません。――ナイラ殿」
「……はい」
(……たぶん、今の俺の魔法なら。ズレは拾える。直せる。何とか出来る気がする。)




