第五十一話 インフラ見学
タラップの先で、床の感触が変わった。
外の空気より、少しだけ硬い。
扉の前に、小さな前室があった。
そこへ足を入れた瞬間――風向きが、揃った。
足元に淡い線が走る。 線は一本ではなく、二本。
ハクは前室の中央に立ち、短く言う。
「ここから先は、線に沿って進んでください」
ナイラは頷き、線の上を踏む。
前室の端に、薄い板のような台があった。
その前で、ナイラの担当教員が目だけで合図をする。
ナイラは流れに従って手をかざした。
何かが確認された気配だけがして、すぐ終わる。
――入館。
前室を抜けると、廊下が滑らかに続いていた。
曲がり角の前に、次の線が先に見える。
ナイラが一度だけアオを見ると、アオはいつも通りの顔で、少しだけ目を細めた。
その落ち着きが、今日は少し助かった。
廊下の途中で匂いが変わる。湯気と油と香辛料。
小さな軽食スペースに通され、ハクが短く言った。
「昼食です。食べ終えたら、見学を開始します」
温かい椀と小さめの皿。包み焼きと香ばしいパン。
作業の合間の補給みたいなのに、湯気はちゃんと旨そうだった。
ナイラは椀を手に取り、湯気を吸い込んだ。
落ち着く。
「ナイラは、こういう簡易食慣れてる?」
アオが、湯気越しに言う。
ナイラは首を振った。
「慣れてはいないです。……でも、嫌いじゃありません」
アオは短く頷いて、まず一口。
ナイラは椀を置いて、息を整えた。
「……今のうちに、私の立場だけは言っておきます」
「私……アウレア連邦から来ています。外賓、という扱いで」
自分の声が少しだけ硬いのが分かる。
「うちの家は、お医者さんの家って言われるんですけど……実際は、治すより前のところが多いんです」
「前?」
アオが短く聞き返す。
「地方の救護所って、道具が“ゼロ”なわけじゃないんです」
「ベッドも器具も、いちおうある。……でも、まず電気が落ちる」
「発電が止まったら灯りが消えて、ポンプも止まって、水が出なくなる」
ナイラは椀の縁に指を置いた。熱で、言葉の速度を落とす。
「それで、洗浄も消毒もできなくなる。冷やす箱が止まったら薬もだめになる」
「“治せない”んです。そこに人が来ても」
「止まったら――間に合わないです」
アオの箸が、一瞬だけ止まった。
「……止まる」
その一言が、妙に重かった。
ナイラは、そこで笑わない。
笑える話じゃない。
「だから……理屈がいらない、って言いたいんじゃないんです」
「理屈を、“現場で通る形”にして、ここで揃えて持ち帰りたいんです」
「置いて、使って、壊れたら直せる――その条件を、ちゃんと」
「暑さでへたらない。燃料が少なくて済む……」
「壊れても、替えの効く部品で直せる……」
途中で、ナイラは自分で止めた。
「……ごめんなさい、言い方が変ですね」
「要するに、雑でも止まりにくくて、手が足りなくても回る」
「その“線”を、ここで決めて帰りたいんです」
言い終えて、ようやく息が戻る。
「……こういうのを、大人は“回す”って言います」
「救護を回す、って。私は、その言い方……あまり好きじゃないんですけど」
アオは椀を置いた。
「分かる」
「……ありがとうございます」
ナイラは小さく頷く。
そこで、口が滑った。
「アオは……どこから?」
聞いた瞬間に、しまったと思う。
踏み込みすぎる。
でも、引っ込めるのも不自然だ。
アオは少しだけ目を伏せた。
「……“国”って言われると、困る」
曖昧な音。
「人の少ないところ。地図の端、みたいな」
それでも、言い足りないみたいに唇が動く。
「外だと、名前だけが先に一人歩きしてる」
ナイラが瞬きをするより先に、アオが続けた。
「……麦の袋に、書いてあるだろ。“ベイラ産”って」
ナイラの背中が、すこしだけ伸びた。
「……あります。うちでも、見ます」
思わず声が上ずる。
「え、それって……場所の名前なんですか?」
アオは一拍だけ置いた。
「そう呼ばれてる。――それ以上は、うまく説明できない」
「じゃあ……」
ナイラは言いかけて、勢いのまま踏み込みそうになる。
「どこに、どうやって――」
抑揚のない声が割って入った。
「そこまで」
ハクだ。
ナイラの指が、椀の縁で止まる。
「……すみません。」
アオは何も言わない。
「昼はここまで」
「この後は見学に入ります」
淡々と、区切る。
ナイラは椀を置き、線の方へ視線を戻す。
次の段階が来る。
見せてもらえる。
線に沿って進むと、廊下の先がふいに開けた。
高い建造物の影の間に、低すぎる半球が沈んでいる。
表面は滑らかで、影の輪郭がぶれない。どこまで見ても、継ぎ目がないみたいだった。
入口の手前で、また空気が変わる。
温度じゃない。
風向きが揃う。音が薄くなる。
目の前には――透明な境界があった。
何もないのに、そこから先へ行けない。近づくほど、肌が押し返される。
隔膜。そう呼ぶのがいちばん近い。
見学導線は、隔膜の縁をなぞるように続いている。
黄色い線。閉じた扉。札が並ぶ。
同じ距離が、何度も取らされる。
整ってる。
そう思って、言い直す。
ここは、止まらないように“回されてる”。
隔膜の向こうに、いくつかのキューブが規則的に置かれていた。
その一つの周囲で、空気が揺れる。
音はない。なのに圧だけがある。
次の瞬間、霧がふっと立って、すぐ消えた。
――熱を、出し入れしてる。
仕組みは分からない。
でも、扱ってるものの怖さは分かる。
「やっぱり……魔法みたいだ」
アオが、ほとんど息だけで言った。
けれど、その言葉はさっきと違った。
遠いものを指す驚きじゃない。手前の現実に近づきかけた声。
ナイラは、喉の奥で飲み込む。
止まったら間に合わない。
だから、止まらないように――ここまでやる。
見学は長くなかった。
導線は迷わせない代わりに、近づかせもしない。
最後にもう一度、透明な隔膜の前で足が止まる。
隔膜の向こうで、また霧が一瞬だけ立った。
白が消える速さだけが、やけに記憶に残る。
「見学はここまで」
ハクの声が聞こえた。
「戻ったら、今日の見学の内容をまとめる」
ナイラの担当教員が、すぐ横で頷いた。
手元の小さな記録板を開き、短く印をつけて閉じる。
ナイラは線に戻り、靴先を揃えた。
全部は無理だ。
近づけない。分からない。――魔法と呼ぶしかない。
でも、目を逸らす気はなかった。
道は違う。けれど、届くところまで押し上げる。
次は、私の課題だ。




