第四十七話 アオとナイラ
中庭は静かだった。
風があるわけでもないのに、草木はゆっくりと揺れている。
ナイラは、小さく息を吐いた。
身体ではなく、頭の奥が重たい。
昨日からずっと、考えがまとまらない。
「やあ、こんにちは」
背後から声をかけられて、ナイラは少しだけ肩を跳ねさせた。
振り返る。
そこにいたのは――昨日の夜、歓迎会で挨拶をした少年だった。
「えっと……」
一瞬、名前が出てこない。
短い言葉しか交わしていない。それでも、妙に印象に残っている。
「……アオ、でしたよね?」
「うん。そうだよ。名前を憶えていてくれてありがとう。」
その返事を聞いて、ナイラはようやく息を整えた。
「……散歩ですか?」
「そんなところ。
ナイラも昨日の今日だしさ。身体より、頭の方が疲れてそうだなって」
一瞬、どう返せばいいか迷ってから、ナイラは小さく笑った。
「……本当に、その通りです。
空気が重いとか、そういうことより……
今まで当たり前だったことが、全部ひっくり返ってしまって」
「うん。分かる」
即答だった。
ナイラは、少し意外そうにアオを見る。
「分かる、ですか?」
「最初はね。便利だな、すごいなって思う前に、
『あれ?』ってことばっかり目につく」
アオは中庭の奥――建物の影が落ちる方を見た。
「慣れると、確かに楽なんだけどさ。
慣れるまでが、一番ややこしい」
その言葉に、ナイラは心が少し軽くなるのを感じた。
「……確かに。
全部、とても便利だということは分かりました」
ナイラは歩き出しながら続ける。
「ここに来る道も、歩いている感覚がなくて。
行きたい方向に、体が勝手に進んでいくみたいで……」
「うん」
「カルドラインが薄いから、魔法は使えない、弱くなるはずなのに……
なのに、全然そうじゃない。本当に、不思議で」
言葉にしてしまうと、止まらなくなりそうだった。
「アオは……もう慣れていらっしゃるようですが。
最初は、何に一番驚きましたか?」
少し考えてから、アオは首を傾げる。
「何だろう……色々あったけど」
一拍、間があった。
「……光、かな」
「光?」
「朝になると、やわらかく明るくなるのに、
どこが光ってるのか分からない。
夜になると、自然に暗くなるのも」
ナイラの目が、ぱっと開いた。
「それです!」
思わず声が弾む。
「今朝も、どこが光っているのか分からなくて……
天井や壁を、ずっと探してしまいました」
「あ、同じことした」
アオは苦笑する。
「俺も最初、裏側とか、柱の影とか見て回ってさ。
結局、分からなくて諦めた」
「ですよね……!」
ナイラは、久しぶりに心から笑った気がした。
「身体が少し重いとか、魔都シェイラと聞いて想像していたものと違うとか……
そういうのより、ずっと楽しいです」
歩きながら、ナイラは続ける。
「魔法というより……
いったい、どんな――」
そこで、言葉が止まった。
「……どんな、レリック――」
アオが、わずかに間を置いてこちらを見る。
「……ちなみに。その“レリック”って?」
ナイラは、はっとした。
「あ……申し訳ありません」
慌てて取り繕う。
「私の国では、仕組みが解明されていない、
ここシェイラで使われている神の道具のことを、
総称してそう呼んでいまして……」
一瞬、視線を逸らす。
「“魔都”という呼び方も……失言でしたね。
私自身が、そう思っているわけではなくて。
一般的に、そう呼ばれることがある、というだけで……」
言い訳が、少し早口になる。
アオは、しばらく何も言わなかった。
やがて、肩をすくめる。
「そっか。そう呼ぶ国もあるんだね」
それだけだった。
ナイラは、ほっと息をついた。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ。話してくれて」
二人の間に、穏やかな沈黙が落ちた。
光は、相変わらずどこからともなく差し込んでいる。
穏やかな沈黙を破ったのは、足音だった。
「……ナイラ様」
振り返ると、エリスが少し距離を置いて立っていた。
いつもの落ち着いた表情だが、呼びかけるまでに、ほんの一瞬の間があった。
「そろそろ、戻られた方がよろしいかと」
「あ……はい」
ナイラは一度だけ、アオの方を見る。
それから、すぐに視線を戻した。
エリスは、今度はアオに向き直る。
「先ほどは、ありがとうございました」
深くも浅くもない、きちんとした一礼だった。
「短い間ではありますが、
これからもナイラ様のことを、どうぞよろしくお願いいたします」
ナイラが、わずかに身を引いた。
「エリス、そんな顔しなくても大丈夫です」
エリスは一歩、引きかけてから足を止める。
ナイラの顔を、確かめるように一度だけ見て――
そして、静かに目を伏せた。
「……承知しました」
それ以上、何も言わなかった。
アオは、少し戸惑ったように立っていたが、
やがて軽く頷いた。
「こちらこそ」
誰かを見守る距離。
言い過ぎず、踏み込みすぎず、
それでも、ちゃんと気にかけている関係。
――こういうの、知っている気がした。
思い出そうとすると、
胸が、少しだけあたたかくなる。
数日後。
来た時と同じように、宙舟の一団は静かに準備を整えていた。
甲板の縁で、ナイラとエリスは並んで立っていた。
「ナイラ様」
エリスは、いつもよりわずかに柔らいだ声で言った。
「アウレア連邦にて、
ナイラ様のご成功を祈念しております」
一瞬、間を置いてから、続ける。
「そして……
お帰りを、楽しみにお待ちしております」
ナイラは、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう」
それだけで、十分だった。
宙舟が、音もなく浮かび上がる。
風が起きることもなく、ただ静かに、高度を上げていく。
ナイラは、その背中を見送った。
見えなくなるまで、目を逸らさずに。
光は、相変わらずどこからともなく差し込んでいる。
その下に、ナイラは立っていた。




