第四十五話 ナイラとアオ
声をかけたあと、一拍の間があった。
ナイラはすぐに振り向かなかった。
周囲に立つ大人たち――護衛と文官、そのさらに外側に控えるシェイラ側の職員。その視線を一度だけ確かめてから、ようやくこちらを見る。
「……はい」
短い返事だった。
アオは一歩だけ前に出る。
「高橋碧です。ここで教育を受けています」
「同年代の人が来るって聞いて。せっかくだから、挨拶をしようと思いました」
ナイラは一瞬だけ瞬きをした。
それから、背筋を伸ばし、はっきりとした動作で一礼する。
「アウレア連邦代表、ナイラと申します。よろしくお願いいたします」
年齢に比べて、落ち着きすぎているほど整った所作だった。
アオも軽く頭を下げる。
「こちらこそ」
少し間を置いてから、続ける。
「先ほどの挨拶、すごくしっかりしていました」
「正直、驚きました」
「慣れてないと、ああいう場では声が出なくなるので」
ナイラはわずかに口元を緩めた。
「ありがとうございます」
「場に立つのは、仕事のようなものですから」
それから、ほんの少しだけ言葉を選ぶようにして。
「……失礼ですが」
「アースガルドから、こちらへ来られているのですか?」
形式的なやり取りのはずなのに、空気がわずかに張った。
アオは即答しなかったが、困った様子も見せない。
「ここに来る前は、もっと人の少ない所にいました」
「アウレア連邦ほど立派な国じゃないです。地図の端に、名前があるかどうかくらいで」
言い切らず、笑って肩をすくめる。
「だから、ここは毎日が新鮮で」
それで話を畳む。
ナイラはそれ以上、出自を追わなかった。
「……そうなのですね」
その背後で、空気がわずかに動いた。
一人の女性――前に出過ぎない位置にいた付き添いが、静かに歩み寄る。
「タカハシ様でしたね」
落ち着いた声。
「アウレア連邦より参りました。ナイラ様の身の回りを預かっております、エリスと申します」
丁寧な一礼。
だが、その視線は自然とナイラの体調や周囲の距離を測っている。
「同年代の方がいらっしゃるのは、ナイラ様にとっても――」
そこまで言いかけて、ナイラが静かに口を開いた。
「エリス」
声は柔らかいが、迷いがない。
「気遣いは不要です」
「ここでは、私が自分で判断します」
エリスは一瞬だけ目を伏せ、すぐに一歩下がった。
「……承知しました」
ナイラは改めてアオを見る。
「失礼しました」
「改めまして、アオ。これから同じ場所で学ぶ者として、よろしくお願いします」
アオは少しだけ考え、それから頷いた。
「……こちらこそ」
一拍置いて、
「よろしく、ナイラ」
そう言って、アオは一歩だけ下がった。
その瞬間になって、ナイラはようやく、
背中に張りついていた力を、ほんの少しだけ緩めた。
その夜、用意された部屋は静かだった。
窓の外に見えるのは、街の灯りではない。
一定の明るさを保つ光源と、規則正しく配置された構造物。
人の営みというより、環境そのものが整えられている印象を受ける。
身体が、少し重い。
疲労とは違う。
空気が違うのだと、理屈では分かる。
魔法が使えない場所だと、事前に聞かされていた通りだった。
ベッドに腰を下ろすと、足元で布が揺れた。
「……お加減はいかがですか」
エリスが、少し距離を取った位置から声をかけてくる。
「ありがとう。大丈夫。」
ナイラはそれだけ答えた。
嘘ではない。
問題があるとも思っていない。
しばらく、窓の外を見たまま、ナイラは言った。
「外から見ていた時は……」
「ただの、巨大な木だと思っていたの」
エリスは何も言わず、続きを待つ。
「中に入ったら」
「……まるで、別の場所みたいだった」
言葉を探す必要はなかった。
それが、いちばん近い感覚だった。
「魔都、って」
ナイラは小さく続ける。
「ここ以外の場所では、そう呼ばれているのでしょう?」
エリスは否定もしなかった。
「ええ。そう呼ぶ国は多いですね」
「でも……」
ナイラは言葉を切り、窓に映る自分の姿を見る。
「中は、全然違う」
「外から想像していたものとは」
エリスは、ゆっくりと頷いた。
「初めて通られる方は、皆さま、似た感想を持たれると聞いております」
説明は、それ以上なかった。
部屋の一角で、何かが小さく音を立てて動いている。
「……ああいうものも」
ナイラは視線を向ける。
「外では、レリックって呼ばれているのよね」
「はい」
それだけ。
動いている理由も、仕組みも語られない。
必要なのは、今はそれだけだと、エリスも分かっている。
ナイラは、ゆっくりと息を吐いた。
「分からないことが、たくさんある」
怖さはない。
ただ、理解できないという事実が、そこにある。
「でも……」
一瞬、言葉が途切れる。
「ここでしか、できないことがある気がするの」
自分に言い聞かせるように。
エリスは、さりげなく上着を手に取り、ベッドのそばに置いた。
「設備は整っていると聞いていますが」
「環境が変われば、体調に出る方もいるそうです」
ナイラはそれに、短く頷いた。
「何かあったら、すぐ呼んでください」
「ありがとう」
それ以上、言葉は交わさなかった。
数日間は、付き添いが許されている。
明日は、この施設の設備を見学する予定だと聞いている。
ナイラは、ベッドに横になりながら言った。
「……明日、楽しみね」
エリスは、灯りを落としながら応じる。
「ええ」
すべてが、外で知っていたものとは違っている。
どう違うのかは、まだ分からない。
けれど――
ここでは、それに慣れるしかないのだろう。
ナイラは、その感覚を胸の奥に残したまま、目を閉じた。




