第三十六話 ロッド先生
朝、目を覚ますと部屋は静かだった。
天井から差し込む光は柔らかく、時間を正確に測るための色温度なのだと、なんとなく分かる。
壁際の操作パネルに指を伸ばし、軽く押す。
小さな駆動音とともに、壁の一部がゆっくりと透明になった。
昨夜と同じ仕組みだ。
中から、朝食がせり出してくる。
「……多いな」
思わず、声が漏れた。
皿は三つ。
湯気の立つ主菜、焼き色のついた肉料理、副菜として果実と穀物。
量だけ見れば、大人用だ。
席に着き、まず肉に箸を伸ばす。
一口食べて、すぐに分かった。
(……レイランの味に、似てる)
ベイラでは、あまり口にしなかった味。
獣臭さはないのに、芯が強く、噛むたびに身体の奥へ熱が落ちていく。
もう一口。
自然と、次に手が伸びる。
満腹感よりも先に、「もっと食べたい」という感覚が来る。
(……まだ、足りない)
気づけば皿は空になり、副菜にも手を伸ばしていた。
食べ終えた頃には、身体がわずかに軽くなっている。
悪くない。
シェイラも、案外。
時計を見る。
約束の時間まで、あと数分だった。
ほどなく、ドアの外で控えめな音がする。
「失礼します。碧殿」
扉が開き、フジワラが立っていた。その横に、もう一人。
「おはようございます。ゆっくり休めましたか」
変わらない、丁寧な敬語。
隣の男が一歩前に出る。
少し――珍しい。
耳が、人よりも長い。
顔立ちは人間に近いが、どこか犬っぽい雰囲気がある。
(……レイラン地区にいた人、みたいだな)
あの辺りにも、少し変わった見た目の人はいた。
「こちら、碧殿の文化・世界理解担当、ならびに生活全般のフォローを任せております。
ローデリック・ヴァルクです」
落ち着いた声だった。
「おはようございます、碧殿。
ローデリック・ヴァルクです。ロッドと呼んでください」
軽く頭を下げる。
「外部からここに来た人間ですので、
碧殿の立場にも、ある程度は寄り添えるかと思います」
「本日は、施設の案内と昼食を取り、その後、担当職員の紹介を行います。
午後からは、碧殿の適性検査に入る予定です」
フジワラが、碧の方を見る。
「本日から、よろしくお願いします」
そう言って、三人で部屋を出た。
移動は、地面から数センチ浮いた専用道路だった。
足を置くだけで、自然に進む。
「こちらが、教学棟です」
ロッドが前を歩きながら説明する。
「碧殿が主に授業を受ける場所ですね。
基礎学習、生活訓練は、こちらで行います」
建物は大きく、天井が高い。
「隣が訓練棟です」
視線の先には、さらに広い建物が見えた。
「神々の道具の演習、身体訓練、実地訓練を行います。
少し……危険な内容も含まれますので、使用時は必ず教員が立ち会います」
なるほど、と頷く。
「研究棟は、また別です」
ロッドが歩みを止める。
遠くに、ひときわ静かな建物が見えた。
「こちらは、別のセキュリティがかかっています。
入れるのは、限られた研究者と教員のみです」
「……では、俺は?」
そう聞くと、ロッドは少しだけ笑った。
「現時点では、入れません。
ですが、基礎教育が終われば、研究棟での授業が組まれる可能性は高いでしょう」
先の話だ、と分かった。
その時、フジワラが歩みを止めた。
専用道路の分岐点だった。
一方は居住区とカフェテリアへ続き、もう一方は行政区画へ伸びている。
「ここから先の案内は、ローデリックに任せます」
淡々とした声だった。
だが、言葉に迷いはない。
「本日の進行は承認済みです。
昼食後、教員紹介の後に適性検査へ移行してください」
ロッドが一歩下がり、静かに頭を下げる。
「承知しました。
午後の進行まで、責任をもって対応します」
フジワラはそれを確認すると、今度は俺の方を見る。
「碧殿」
呼ばれて、背筋が自然と伸びた。
「本日以降、私が直接同行することは多くありません。
ですが、教育計画と安全管理については、常にこちらで監督しています」
距離を置く宣言。
同時に、放り出さないという意思表示でもあった。
「不都合があれば、遠慮なく申し出てください。
最終判断は、すべてこちらで行います」
「……はい」
短く答えると、フジワラは一度だけ頷いた。
それ以上の言葉はなかった。
別れの挨拶も、激励もない。
仕事として、必要なことだけを告げて、去る。
フジワラは踵を返し、別の専用道路へと進んでいった。
その背中は、最後まで振り返らなかった。
残されたのは、俺とロッドだけだった。
昼は、カフェテリアのような場所だった。
広い。
千人は入れそうな空間だが、実際に使われている席は点在する程度だ。
音も少なく、食器の触れ合う音がやけに響く。
ロッドと向かい合って腰を下ろす。
運ばれてきた料理は、やはり肉が中心だった。
湯気の立ち方が、朝よりも強い。
一口食べて、思わず言葉が漏れる。
「……これ、何の肉ですか?」
ロッドはすぐには答えなかった。
こちらの皿と、俺の手の動きを一度だけ見てから、口を開く。
「詳しい品種までは把握していませんが……魔獣の肉ですね」
淡々とした口調。
補足もしない。
「ベイラでは、あまり食べたことがなくて。 でも……美味しいです。」
そう言うと、ロッドは小さく頷いた。
「そう言われることは多いです。
この施設では、成長期の身体に合わせた食材が出ますから」
理由は語らない。
“そういうものだ”という言い方だった。
再び箸を進める。
噛むたびに、身体の奥が静かに熱を持つ。
気づけば、無言のまま食べ続けていた。
「……よく食べますね」
ロッドが、何気なく言った。
責めるでも、驚くでもない。
事実を確認するような声音。
「……はい。
自分でも、少し多いかなとは思います」
「無理に抑える必要はありません」
即答だった。
「ここでは、食事も“教育の一部”ですから」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
だが、意味を聞き返す前に、ロッドは箸を置く。
気づけば、二人前を平らげていた。
皿を下げに来た係員が、一瞬こちらを見て、何も言わずに去っていく。
ロッドは、それを見ても表情を変えなかった。
壁面の表示が、正午を少し過ぎたことを知らせていた。
ロッドが、静かに立ち上がる。
「そろそろ、次の予定です」




