第三十五話 シェイラ特別教育機関
境界を越えた瞬間、空気が変わった。
森の匂いが切れ、光が増える。音が一気に押し寄せてくる。足音、呼び声、金属が触れ合う乾いた響き、遠くで弾ける笑い声――人の流れが、視界の端を途切れなく流れていった。
シェイラだ。
何度も来たことのある街。
家族で歩いた通り。サラが目を輝かせて、店先を指さしていた景色。
俺は前を向いたまま、息を吸って吐いた。吐いた息はすぐに街の音に溶けて消える。心だけが、ほんの少し遅れているみたいだった。
しばらく進むと、さっきまでの喧騒が嘘みたいに遠ざかり、広い石畳だけが残っている。
父さんとソウマが、同時に足を止めた。
視線の先に、一団がいた。
距離は十数歩。
すでにこちらを待っていたらしい。先頭の男が気づいたように、静かに会釈をする。それに合わせるように、周囲の者たちも同じ角度で頭を下げた。
特別教育機関の関係者が三名。先頭に一人、その後ろに同じ制服の二人が控えている。
さらに周囲には、警備と思われる者たちが数名、無言で配置についていた。
名乗る気配はなく、全員が決められた位置を正確に守っている。
少し離れた位置には、別の二人が立っていた。
質のいい外套に、胸元の紋章――ベイラの評議会付近で見た印だ。
派手さはないが、明らかに立場の違う者たちだった。
(……たぶん、評議会の人なんだろう)
断定はできない。でも、そう考えるのが一番しっくりきた。
二人は言葉を発さず、ただ場を見ているだけだった。
そのうちの一人と、父さんの視線が一瞬だけ合った。
互いに、ほんの小さく会釈する。
先頭の男が、一歩前に出る。
その一歩で空気が引き締まった。
視線がまず父さんに向く。長く、落ち着いた目。
次にソウマへ。
最後に、俺の方へ――ほんの一瞬だけ。
心臓が、わずかに跳ねた。
「シェイラ特別教育機関。統括責任者の、フジワラ・ヨリマサです」
低く、整った声だった。
父さんが短く頷き、ソウマも軍人の角度で一礼する。
フジワラは、改めて父さんへ向き直った。
「本件、特別教育機関が国家案件として責任をもって引き受けます」
一拍。
背後で、遠くの街の音がかすかに揺れた。
「高橋殿がこれまで背負ってこられたもの、そして碧殿の将来――その双方を軽んじることはありません」
父さんは、すぐには答えなかった。
数秒の沈黙。
ソウマも動かない。
それから、父さんが一度だけ頷いた。
次の瞬間、父さんは俺の前に立った。
視線が合う。
いつもと同じ、強い目。けれど、瞬きの間が少しだけ長い。
父さんは周囲を一度だけ確認した。
評議会の立会人。フジワラの姿勢。ここが公の場だという事実。
それから――俺を抱きしめた。
強く、短く。
胸が潰れるほどの圧。足が一瞬浮いて、すぐに地面に戻る。父さんの腕の硬さと、体温だけが残った。
耳元で、低く一言。
「アオ。お前ならできる。俺の息子だ」
それだけだった。
喉が詰まって、声が出ない。
俺は、ただ頷いた。
父さんはすぐに離れ、何事もなかったように背筋を正す。その切り替えの早さが、逆に胸に残った。
ソウマが一歩下がり、軍人として一礼する。
「ご武運を」
フジワラが一歩前に出る。
「では、碧殿をお預かりします」
「アオを、よろしくお願いします」
父さんの声は、静かだった。
専用の小型宙船に、俺とフジワラ、警備のメンバーが乗り込む。
他の宙船も同時に動き、俺の乗る機体を囲むように配置された。
発進は、驚くほど静かだった。
窓の外で、ゲートが遠ざかる。
不思議と、気持ちは落ち着いていた。
街並みの向こうに、一本の大きな川が見えた。
宙船はその上を越え、その先で景色がふっと開ける。
そのまま進み、セキュリティエリアを抜けて、
特別教育機関に到着する。
広い――それが最初の印象だった。
グラウンドがあり、いくつもの建物が並んでいる。
地面から数センチ浮いた専用道路が、建物同士を滑らかにつないでいた。
人が乗れば、足を動かさなくても進むらしい。
人が動いているのを見れば、道があるのだと分かる。
一方で、荷物の流れもあると聞いてはいたが、
どこを通っているのかは、外からは分からなかった。
ベイラも魔法の建物に囲まれていた。
でも、あちらは自然の中に溶け込んでいた。
ここは違う。
自然は少ない。代わりに、道も建物も――インフラそのものが生きているようだった。
フジワラが歩きながら、周囲を示す。
「教育棟。研究棟。居住区です」
一度、言葉を切った。
「シェイラが誇る――いえ。惑星アークヴェルスに存在する、あらゆる神の地のダンジョンと比べても、ここほど神の巡りが強い場所はありません」
視線が、建物群をなぞる。
「古代より、この地では英雄を育て、平和のために各国の要人を受け入れてきました」
俺は黙って聞いていた。
(……神様の力が、まだ強く残っている、か)
フジワラが足を止める。
「詳細な説明と職員紹介は明日行います。今日は移動の疲れを取ってください」
専用道路が静かに減速し、居住棟の前で止まった。
「荷物はすでにお部屋に搬入されています。こちらです」
ドアの前に立つと、扉が半透明に変わる。
「明朝八時に迎えに来ます。それまで、お部屋は自由に使って構いません」
「設備や道具で不明点があれば、こちらへ連絡してください」
フジワラと部下二人は、そこで一礼して去っていった。
ドアが閉まる。
静かだった。
荷物の中に、携帯パン焼き機があるのを見つける。
触れずに、棚に置いた。
ベッドに腰を下ろし、部屋を見回す。
ふと、荷物の中の端末に手を伸ばした。
起動だけなら、いいはずだ。
画面が点灯する。
登録先の一覧に、見慣れた名前はなかった。
――ベイラ宛の通信には管理者の許可が必要です
一行だけ、無機質な文字が表示される。
……ああ。
これが、さっき父さんが言っていた“制限”か。
ついに、一人だ。
世界を救う英雄が、どんなものかは分からない。
正直、まだ怖い。
それでも――逃げないと決めた。
ここで立ち止まったら、たぶん一生後悔する。
この世界には、分からないことが多すぎる。
だから、目を背けずに進む。
だから、始める。
ここからだ。




