第三十三話 旅立ち準備
レイランから戻って、数日が過ぎた。
家の中の空気は、ようやく“いつも”の形に戻りつつある。
笑い声は戻った。食卓も、ちゃんと温かい。
――ただ、完全に同じではない。
誰も口にはしないけれど、みんなが一度だけ、世界の「外側」を見てしまった。
その影が、言葉の端に、視線の間に、薄く残っている。
来週の神六曜日。
俺は、ここを出る。
その日付が近づくほど、家は不思議なくらい静かに整っていった。
俺は今朝も、裏庭に立っていた。
息を整え、指先に意識を集める。
風は、まだ薄い。
けれど、ベイラの空気の中でも、ほんの少しだけ応える感触があった。
(……焦るな)
父さんの言葉を思い出す。
強くなるために急ぐな。
崩れないために、整えろ。
草が、そっと揺れた。
小さく、短い渦。
昨日より、落ち着いている。
「今朝は、無理をしていないな」
森の奥から、隼丸の声がした。
木陰のまま、こちらを見ている。
「うん」
「それで良い」
それだけ言って、隼丸は視線を外した。
その横で、フィオが小さく羽を震わせる。
「アオ……あさ……」
「おはよう、フィオ」
フィオは眠そうな顔で、俺の足元にぺたっと座った。
その温さが、少しだけ安心をくれる。
家に戻ると、キッチンから湯気の匂いがした。
「アオ、おはよう。今日も早いのね」
母さんは手を止めずに言う。
鍋の中のスープが、静かに揺れている。
「訓練してた」
「じゃあ、皿お願い」
テーブルには焼きたてのパンが並び始めていた。
ミケは椅子の上で尻尾を揺らし、狙いを定めている。
「アオ〜。そのパン……ミケに、ちょっとだけニャ……」
「だめ」
「にゃっ!? ミケは誠実ニャ!」
サラがくすっと笑って、椅子に座る。
目が合うと、一瞬だけ互いに息を止める感じがした。
――それでも、今日のサラはちゃんと笑った。
「ねえ、今日さ。プール行かない?」
「行く」
「やった! 今なら空いてるんだよ!」
***
プールは、ベイラの学校の敷地の奥にある。
夏休み中は解放されていて、授業のない時間帯なら誰でも使えた。
透明な結界の内側で、水面がきらきら光っている。
「冷たっ!」
サラが先に足を入れて笑う。
フィオは水を怖がるかと思ったら、そのまま飛び込んで、派手にしぶきを上げた。
「フィオ、つよい!」
「つよい……!」
ミケは縁で固まり、耳を倒している。
「水はだめニャ……」
笑い声が、夏の空に溶けた。
サラが水をかけてきて、俺が避けると、悔しそうに頬を膨らませる。
「アオ、ずるい!」
「鍛えてるから」
「それ、言う〜?」
少しだけ反撃して、サラが笑う。
その笑顔が眩しくて、胸の奥がふっと温かくなった。
(……この夏、最後なんだな)
みんなが休憩する頃、俺は木陰に座った。
水滴が腕を伝って落ちる。
目を閉じると、レイランの路地が浮かぶ。
乾いた音。白い光。
人の流れ。
分からないことばかりだ。
でも、何も起きていないとは思えなかった。
(……知らないままじゃ、いられない)
木陰から立ち上がると、サラがこちらを見ていた。
呼ぼうとして、ほんの一瞬だけ言葉を飲み込む。
それから、いつもの調子で手を振った。
「アオ! まだ遊ぶよ!」
「うん」
その声が、俺を今に引き戻した。
***
夜。
食卓の灯りは、いつもより少しだけ柔らかかった。
特別なご馳走ではない。
いつものスープと、いつものパン。
父さんが箸を置く。
「……黒獣は、倒せた」
誰も驚かない。
「ただ、今までああいうことはなかった」
隼丸が短く頷く。
「境界が、薄くなっている」
父さんは一度、息を吸った。
「サラとアオを、危険な目に合わせた。……すまなかった」
短く、重い言葉だった。
父さんの視線が、俺に向く。
「……アオが、特別な力を使っているのは、前から分かっていた。
ただ……正直、思っていたより、ずっとだった」
父さんは、少しだけ言葉を切る。
「……あの時はな。
本当に……無事でよかった」
短く息を吐く。
「だからな……溺れるなよ。
それだけは、父さんからの頼みだ」
「これからは、英雄プロトコルに入る。
心と、技と、体を――少しずつでいい。
焦らなくていい」
「普通にやっても、十年以上かかる。
……長い道だ」
それから、俺を見る。
「でも……ちゃんと歩けば、辿り着ける。父さんは、そう思ってる」
「うん。……がんばる」
それで、話は終わった。
食事が終わる頃、母さんが布に包んだ小さな筒をテーブルに置いた。
「これから忙しくなりそうでしょう? だから今日渡しておこうと思って。使い方も、一緒に教えたいから」
包みを開くと、小さな携帯器具が現れる。
丸くて、持ち手がついていて、淡い空色。
「お家と同じ味がお外でも食べられる携帯パン焼き機よ。粉と水を入れて、待つだけ」
サラが胸を張る。
「色と形、わたしが選んだの! “しろパン”、これで作れるよ!」
言いながら、サラの声の端が、ほんの少しだけ揺れていた。
母さんが続ける。
「外の小麦やお水だと、味は変わる事があると思うわ。でも……それでもいい」
俺は器具を抱えた。
軽い。
けれど、胸の奥は重かった。
「……ありがとう」
みんなを見る。
「行ってくる」
母さんが笑い、サラも笑った。
「ちゃんと食べるんだよ」
「うん」
フィオが小さく言う。
「アオ……ぱん……」
「今度、焼く」
「……うん……!」
夜は静かに更けていく。
灯りの下で、器具の空色が柔らかく光っている。
来週の神六曜日。
この家で過ごす夜は、もう数えるほどだ。
俺はパン焼き機のふたに手を置いた。
(忘れない)
家の匂いも、声も、温度も。
全部、抱えて行く。
そして――ちゃんと帰ってくる。




