第三十一話 帰る場所へ
詰所の中は、張りつめた空気に満ちていた。
血の匂い、焦げた布。
卓の上には濡れた地図が広げられ、端末の表示が淡く瞬いている。
“未帰還”の札が、三つ。
一つは、線が消えていた。
残り二つは――地下と思われる層で、断続的に動いている。地上に跳ねたような反応もある。
だが、それが本物かどうか。
ここにいる誰も、確信できない。
印を消せる相手だ。
印を残すことだって、できる。
ソウマは椅子に腰を下ろしたまま、包帯の隙間から滲む血を気にも留めず、報告だけを吐いた。
父さんは、頷かない。
卓の縁に指を置いた。そこが、ソウマ達との分岐点だった。
自分の判断で、隊を割った場所。
「……間に合った。ぎりぎりだった」
低い声が、室内を切った。
隼丸が隣で短く頷く。
「もう一歩遅ければ、守護隊に死者が出ていた。
だが、ソウマが退路を押さえた。敵は逃がしていない」
父さんは言い切って、視線だけを上げた。
「未帰還の状況は」
誰も、すぐに答えない。
一瞬の間の後にソウマが、ようやく息を吐いた。
「最終確認は水路の分岐。……印が一つ消えました。残り二つは地下を移動、地上に出たような反応も出ています。
ただし、陽動の可能性があります」
父さんの目が細くなる。
「印は追うな。追えば、殺される」
「地下を押さえる。地上は二枚目だ」
命令が、次々に落ちる。
「出口は種類で潰す。
上がり口は三つだ――水路の出口、保守口、縦坑。
そこは地区警備に面で張らせろ。」
「守護隊は“分岐と合流”と“柵”だけ押さえる。
追うな。挟め。出口を減らせ」
「拘束者を分離。今、割る。時間が命だ」
「黒獣は別系統に渡す。致命的破壊は避け、現状維持を優先。
――こっちは未帰還回収に集中する」
誰かが「しかし」と言いかけて、飲み込んだ。
父さんの声が、そこに“余白”を許さない。
隼丸が一歩、翼を畳み直す。
その音が、刃を研ぐみたいに響いた。
「地上の検問も含め、絶対に敵を外に逃がすな」
父さんは卓の地図を押さえたまま、言った。
「二つの印が近づいてきている。敵の可能性もある――」
「“戻った”と決めるな。戻ったふりはできる」
「符丁が揃うまで、入れるな」
言い切ったあと、父さんは一度だけ、ほんの一瞬だけ、祈るみたいに目を閉じた。
「……行く」
その一言で、守護隊が動き出す。
椅子を引く音。装備の擦れる音。端末の操作音。
――直後。
詰所の扉が、短く叩かれた。
一度。間を置いて、もう一度。
内側の空気が張る。
入口に立つ隊員が動かないまま、手だけを錠に伸ばす。
錠の音。
扉が、内側から開いた。
夕暮れの光が室内へ差し込み、埃が舞う。
入口に立つ隊員の表情が、先に答えを告げていた。
夕暮れの光の中に、三人がいた。
父さんの目が、ほんの一瞬だけ揺れる。
――戻った。
息が、ひとつ抜ける。
声にならない吐息が漏れた。
次の瞬間――
「サラ!」
父さんの声が、思わず跳ね上がる。
次の瞬間には、父さんは卓を回り込み、一直線に駆け寄ってきていた。
硬い装甲が擦れる音が床に響く。
サラは一瞬、きょとんとした顔をしてから、
次の瞬間、ぎゅっと顔を歪めた。
「……っ、パパ……」
父さんは、何も言わずにサラを抱き上げた。
強く、確かめるように。
「……よかった……」
声が途切れる。
言葉が、続かない。
サラの肩が震えた。
今度は、声を殺しきれなかった。
母さんはその背中をそっと支えたまま、
深く息を吐く。
「……無事です。二人ともいます。」
短く、状況だけを伝える。
「下水道から抜けました。
追われましたが……アオが判断して切り抜けています」
視線が、俺に集まった。
父さんはサラを抱いたまま、俺を見た。
叱る目じゃない。
――怒っているのに、抑えている。
安堵が先に出てしまうのが、分かる。
その顔を見た瞬間、
胸の奥に張りつめていたものが、ほどけた。
息が、変なところで引っかかる。
喉の奥が熱い。
気づいた時には、頬が濡れていた。
俺は慌てて拭おうとして、
でも指が震えて、うまくいかない。
父さんは何も言わなかった。
サラを下ろし、今度は俺を引き寄せる。
ごつごつした装甲越しに、強く抱きしめられた。
骨が軋むほど、短く。
「……よく戻った」
低い声だった。
責める言葉も、問いただす声もない。
少し遅れて、ソウマが立ち上がった。
動くたび痛みが走るのか、眉をしかめる。
「……すまない」
それは、俺に向けた言葉だった。
「守る役目だった。
それを、果たしきれなかった」
「……生きてます」
俺は、それだけ言った。
ソウマは一瞬、目を伏せ、
それから、静かに頷いた。
詰所の空気が、少しだけ緩む。
「今回の件は、偶然ではない」
低く、重い声。
「アークヴェリアの者が、
外界から狙われる理由は、一つではない」
父さんは、言葉を選ぶように一度だけ息を吸った。
「……私たちは、価値が高い」
淡々とした声だった。
「血筋、環境、ベイラの管理の歴史。
外から見れば、どれも“欲しいもの”だ」
サラが、ぎゅっと母さんの服を掴む。
「だから、殺さなかった」
父さんは視線を落としたまま続ける。
「殺す必要がない。
攫えば、使える。売れる。交渉にもなる」
空気が冷える。
「……そして、守護の届かない外へ出されたら、話は変わる」
誰も、すぐには意味を問わなかった。
「だから、急がなければならなかった」
父さんは、布に包まれた小さな板を卓に置いた。
「サラの証だ」
泥に汚れ、刻印は割れている。
「証は……無効化されていた」
「専用の剥離装置だ。持っている連中は限られる」
サラは、説明を聞いている間ずっと、胸元を押さえていた。
「……追跡は不可能だった」
位置も、時間も、すでに切られていた。
あの時点で、連れ出されていれば――
その瞬間、サラがびくりと跳ねた。
「……あ」
小さな声。
全員の視線が、サラに集まる。
サラは、両手を胸の前で握りしめ、俯いた。
「……なくすなって、言われてたのに……」
声が震える。
「……なくしちゃった。ごめんなさい……」
「……どうしよう。
……帰れる?」
父さんは、すぐに答えた。
「大丈夫だ」
迷いのない声。
「本証は戻らない。だが、帰る手段は用意する。
急いで手配する。仮証でも、方法はある」
父さんは、母さん、俺、サラを順に見て――
最後に、はっきりと言った。
「みんなで帰ろう」
父さんの手が、わずかに強く握られた。
詰所の灯りが、ゆらりと揺れた。
夕暮れの外とは違う、
確かな、帰る場所の光だった。




