第三十話 言えなかった言葉
母さんは、震える手を下ろしたまま、俺を睨んでいた。
逃げ場のない視線だった。
夕暮れの光が、路地の出口から差し込んでいる。
さっきまで命の音がしていた地下とは、まるで別の世界だ。
それでも、母さんの目だけは、まだ戻ってきていなかった。
「……あなたは」
声が、掠れている。
「自分の命を、何だと思ってるの」
言葉が、静かに落ちてくる。
怒鳴り声じゃない。
だからこそ、逃げられなかった。
「助けられたから、正しかった?
生きて戻れたから、それでいい?」
胸の奥を、鋭い針で突かれた気がした。
俺は、何も言えない。
「私が止めたのに。
それでも前に出た」
母さんが、息を吸う。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「あなたは……私を置いていったのよ」
一拍。
「次は、戻れないかもしれないって、
分かってて行ったでしょう」
分かっていた。
あの時、俺が動かなければ、
サラを守れる可能性は、もう残っていなかった。
危険かどうかじゃない。
失わないために、前に出た。
だからこそ、言葉がなかった。
「それを――
待つ母親に、させないで」
最後の言葉は、怒りじゃなかった。
泣き声に近かった。
母さんの肩が、わずかに震える。
次の瞬間。
母さんは、俺の名前を呼ぶこともなく、腕を伸ばした。
強く、俺を抱きしめる。
「……サラを、助けてくれてありがとう」
耳元で、そう言った。
胸に顔を押しつけられて、息が詰まる。
母さんの腕は細いのに、逃げ場がなかった。
次に、母さんはサラの方を向いた。
サラは一瞬、戸惑ったように瞬きをしてから、
小さく一歩、前に出る。
母さんは、今度は迷いなくサラを抱きしめた。
「……生きていてくれて、ありがとう」
それだけ言って、声を詰まらせる。
サラの肩が、びくりと跳ねた。
次の瞬間、サラは母さんの服をぎゅっと掴んで、顔を埋めた。
泣き声は、出なかった。
でも、背中が小さく上下している。
しばらくして、母さんはゆっくりと二人を離した。
目元を袖で拭い、深く息を吸う。
「……行きましょう」
声はまだ濡れていたが、芯が戻っていた。
母さんは周囲を見回す。
夕方の街は、人の流れが多い。
騒ぎはあったらしいが、混乱はもう落ち着き始めていた。
地上に出て、初めて気づく。
建物が、硬い。
形は、ベイラの街並みに少し似ている。
道の幅も、角の取り方も、どこか近い。
けれど――触れても、何も応えない。
壁は石だ。
光を返さず、ただそこに積まれているだけの素材。
生きていない。
(……これが、外界か)
「下水の出口……この位置なら……」
母さんは独り言のように呟き、空を見て建物の影を確認する。
「詰所は……あっちのはず」
そう言って、歩き出した。
俺とサラも、その後ろをついて行く。
街路には、夕暮れの匂いがあった。
店じまいの音。
木箱を片づける乾いた音。
遠くで馬車が軋み、誰かが笑っている。
「今日はお肉にする? それとも魚?」
通りの向こうで、そんな声が聞こえた。
「魚は昨日だったでしょ。じゃあ、お肉ね」
子どもが少しだけ不満そうに唸って、
親が笑いながら頭を撫でる。
別の店先では、家族が立ち止まっていた。
「魔石、そろそろ予備が切れるわよ」
「帰りに買っていこう。じゃないと、夕飯できなくなる」
ついさっきまでのことを、
誰も、知らない。
しばらく無言で歩いていると、サラがふいに顔を上げた。
「あっ……」
何か思い出したみたいに、声を出す。
「ねえ、アオ」
「……なに」
「せっかくね、お気に入りの服、着てきたのにさ」
サラは、両手を広げてみせる。
今は、布一枚を羽織っているだけだ。
「なくなっちゃった!」
ぱっと笑う。
少しだけ、声が高い。
「残念だなあ。あれ、好きだったのに」
明るく言っている。
でも、目は一瞬だけ、伏せられた。
「……また、買えばいい」
俺は、それだけ言った。
「うん! そうだよね!」
サラは大きく頷く。
歩幅が、ほんの少しだけ速くなる。
母さんは何も言わない。
ただ、歩調をわずかに落として、サラの隣に来た。
角を二つ曲がる。
見覚えのある建物が、視界に入った。
石造りの街並みの中で、そこだけ少し違う。
木で組まれた、低い平屋。
飾り気はないが、扉の前に立つと、不思議と落ち着く。
入口には、守護隊の紋。
「……着いた」
母さんが、息を吐いた。
詰所の前は、静かだった。
母さんは扉の前で止まり、短く叩く。
内側で足音が一つ、止まった。
錠の音。
扉が、内側から開いた。
次の瞬間――
空気が、変わった。
誰かが母さんの名を呼び、
椅子が引かれ、
足音が、こちらへ向かってくる。
母さんは、一歩、中へ踏み出す。
俺とサラも、その後に続いた。
夕暮れの光が、背中で閉じられる。




