第二十八話 奪われたものを取り戻すために
横穴に滑り込んだ瞬間、
外の音が、壁一枚ぶんだけ遠ざかった。
完全に静かではない。
水路を伝う足音も、反響も、まだ追ってくる。
でも、ここは――わずかに息がつける距離だった。
「……止まって」
母さんの低い声に、俺は足を止めた。
振り返ると、サラがそこにいる。
俺の手を、ぎゅっと掴んでいる。
小さな手。
力が入っているのが、はっきり分かる。
サラは、自分で立っていた。
震えながらも、必死に。
――それだけで、胸が軋んだ。
布一枚。
それだけが、彼女の体を包んでいる。
服も、防護具も、靴もない。
白い肌に、赤い線。
手首、足首、胴――縄の跡だ。
血は出ていない。
傷も見えない。
それでも、泣きはらした目と、止まらない震えが、
何があったかを、十分すぎるほど語っていた。
「……サラ」
名前を呼ぶと、肩がびくりと跳ねた。
焦点の合わない目が、ゆっくり俺を探す。
「……アオ……?」
掠れた声。
その瞬間、
両の手のひらの奥が、同時に脈打った。
左が、焼けるように熱を持つ。
右が、勝手に力を入れようと引きつる。
怒りと一緒に、氷がせり上がる。
熱も、動きも、全部が一瞬で繋がりかけた。
――まずい。
歯を食いしばり、必死で押し戻す。
ここで出したら、
守るはずのものを、壊す。
「大丈夫だ」
声が、少しだけ震えた。
「ケガは……ない。歩ける」
自分に言い聞かせるみたいな言葉だった。
サラは、弱く首を振る。
その動きさえ、どこか遅い。
「……こわかった……
暗くて……知らない人で……
声も、音も……いっぱいで……」
指先が、俺の服を掴む。
「……なんで……アオが……?
ここ……どこ……?
パパは……?」
質問が、ばらばらに落ちてくる。
混乱している。
理解が、まだ追いついていない。
「……ママ……ママのところに……」
その言葉で、母さんが一歩、前に出た。
――そして、ほんの一瞬。
表情が、崩れた。
サラを見つめる目が、確かに緩んだ。
無事だった、という安堵が、抑えきれずに滲む。
「……サラ」
声は低いが、震えている。
「大丈夫よ。ここにいるわ。
一緒に……一緒に帰りましょう」
サラが、母さんを見る。
ようやく、現実に戻ってきたみたいに。
「……ママ……」
その一言で、母さんの喉が、かすかに鳴った。
でも、次に俺を見る目は、変わらなかった。
まぶたの奥に、火が残っているみたいだった。
それでも、言わない。
今は言うべきじゃないと、分かっているから。
「……歩くわよ」
短く、言った。
横穴は細い。
水路沿いに、足場が続いている。
出口の方向は分かる。
空気が、少しだけ違う。
だが――
(走れない)
判断は、即座だった。
サラは裸同然だ。
防護も、耐衝撃も、何もない。
前みたいに、力で運べば、
俺はサラを壊してしまうかもしれない。
「……歩こう」
俺は言った。
「手、離すな。
追いつかれたら……俺が止める」
母さんが、俺を見る。
何か言いかけて、飲み込んだ。
「……分かったわ」
母さんの返事は短かった。
けれど、唇の噛み跡が、気持ちの行き場を物語っていた。
母さんが、布を直し、
サラの体をできるだけ包む。
サラは、まだ震えている。
「……アオ……」
小さな声。
「……こわかった……
なんで……あの人たち、急に動かなくなったの……」
俺は、答えられなかった。
よかった、という気持ちと。
あの力がまた出るかもしれない恐怖と。
母さんの声を背中で断ち切ったときの、刺さるような後ろめたさ。
胸の奥が、重くて、うまく息が入らない。
「……今は、考えられない」
それだけ言って、前を見る。
足音を殺し、一歩ずつ進む。
サラの歩幅に、合わせながら。
――しばらく歩いて。
前方に、わずかな明るさが見えた。
出口だ。
地上に繋がる、排出口。
(……見えた)
その瞬間、背中に、ぞくりとしたものが走った。
音じゃない。
気配だ。
近づいてくる。迷いがない。
母さんも、気づいた。
歩みが、止まる。
サラの手が、強く握られる。
「……来てる」
俺は、静かに言った。
出口は、すぐそこだ。
でも、この距離で追いつかれたら、背中を見せたままになる。
それだけは、できない。
「……ここで、止まろう」
母さんが、俺を見る。
否定はしない。
強く、頷いた。
俺は、一歩、前に出る。
母さんとサラを、背中に置く位置。
拳を握る。
冷たくなる前に、息を整える。
出口は、見えている。
でも――今は、進まない。
追手の気配が、はっきりと迫ってくる。
だから。
俺は、足を止めた。




