第二十七話 動き出した世界
息を吸うと、喉の奥がひりついた。
走ったせいだけじゃない。空気が冷たく、湿っている。
石の階段を降り切った先で、通路が広がった。
天井が高い。アーチ状の梁が連なって、暗い。
水の音が絶えず響いている。
水路が三本、ここで合わさっている。合流点。
(……ここだ)
人が隠れられる影が多い。
同時に、足音も匂いも、反響で増幅する場所。
待ち合わせに向いている。
“誰かが来る”前提の場所だ。
俺は壁に背をつけ、息を殺して覗いた。
灯りはない。
代わりに、上の通気孔から薄い外光が落ちている。
水面が鈍く光って、影が揺れて見える。
(……三人)
端に一人。
背を壁に預け、視線だけを回している。見張り。
中央寄りに一人。
足幅が広い。腰が落ちてる。護衛。
そして――水路の縁。
布に包んだ“何か”を抱えた男が一人。
布は雑に巻かれている。
服の形は見えない。
布の隙間から、青白い顔だけが覗いていた。
口元には、噛まされていた布を無理に外した跡。
手首の位置が、不自然に揃っている。
(……サラ)
胸がきしんだ。
でも、ここで感情を前に出したら負ける。
視線を広げる。
横穴がいくつもある。
水路沿いの段差。
奥の方――まだ誰もいない。
(合流相手は、まだだ)
背後で、母さんの呼吸が荒い。
声を出さないように噛み殺しているのが分かる。
袖が擦れる音が、妙に大きい。
俺は振り返らずに言った。
「……母さん。ここで待ってて。絶対に出ないで」
「アオ……!」
腕を掴まれた。
強い。迷いのない力だ。
「待ちなさい」
声は低く、震えてもいない。
「あなたが行くしかないことは、分かってる」
「でも――一人で行く必要はない」
一瞬だけ、間があった。
「私が囮になる」
「視線を集める。その隙に――」
(無理だ)
考えるより先に、声が出た。
「だめだ」
被せるように言った。
「母さんが出た瞬間、相手は手を変える」
「逃げる。盾にする。脅す」
息を継がず、畳みかけた。
「最悪は、消す」
母さんの指に、力がこもる。
「……サラを、守るためでしょう」
母さんは怒鳴らなかった。言葉尻だけを、そっと固くした。
「分かってる」
子どもの体。
短い腕。軽い足。
でも、この距離で“届く”のは俺だけだ。
「母さんが出たら、サラが死ぬ」
「……そんな……」
「死ぬ」
言い切った。
母さんの瞳が揺れて、唇が開きかけて、閉じた。
一拍。
「アオ、あなたは……まだ……!」
「分かってる」
だから、これ以上は言わない。
俺は母さんの指を、ゆっくり外した。
乱暴に振りほどかない。音が出る。
「……ごめん」
そう言い残して、影から出た。
「アオ!」
母さんの声が追いかける。
でも振り返らない。
振り返ったら、止まる。
***
水面の反射が、足元を騙す。
石が濡れている。滑る。
俺は段差の乾いたところだけを選んで歩いた。
わざと、ゆっくり。
隠れて近づくより、油断を取る。
見張りが気づいた。
顔がこっちを向く。
「……なんだ、てめえ」
声が反響して増える。
下水道の天井にぶつかって戻ってくる。
「どっから来た。誰だ」
俺は答えない。
ただ歩く。
心臓の音がうるさい。
でも、手順は頭の中に置く。
(最初に、見張り)
見張りが一歩出た。
俺の方へ来る。
――範囲に入った。
俺は踏み込み、肘に触れた。
凍らせる。関節だけ。
……のはずだった。
白が爆ぜた。
敵の皮膚が一気に白く変色し、霜が血管の形に走る。
肘だけじゃない。肩へ、胸へ。
さらに床へ。水気を拾って、霜が走る。
「――っ!?」
男の目が見開かれる。
関節が固まり、体が崩れた。
(やりすぎ――!)
霜が床を舐めていく。
乾いたひび割れの音が、遅れて追いかけてきた。
速い。俺の意志より速い。
怒りと焦りが、そのまま漏れている。
白い筋が水路を伝い、サラの足元へ伸びる。
(サラの方に――!)
俺は魔力を押し戻した。
腕の中に叩き込むみたいに、止める。
霜が、ぎりぎりで止まった。
止まった瞬間、体が揺れた。
左手のひらが、じわりと熱を持つ。
冷たいはずなのに、焼けるみたいに。
その一拍で、空気が変わる。
「氷……!」
「ふざけるな……!」
「人間が使える威力じゃねえぞ……!」
声が、わずかに裏返る。
護衛の声。
警戒が跳ね上がった。
抱えている男が半歩下がる。
サラを盾にする位置取り。
そして、刃が抜ける。
ナイフ。
鈍い光が、水面に映る。
「動くな」
「一歩でも近づいたら、この子が先だ」
「触るな」
低い声。
慣れている。
「……なんだよ、その氷」
「道具か? それとも――」
刃先が、サラの首元へ寄った。
触れそうな距離。
(撃てない)
今の俺は、触れてないのに広げた。
ここで凍らせたら巻き込む。
サラが俺を見た。
声が出ない泣き方。息だけが震えてる。
「……アオ……?」
呼ばれた瞬間、胸が熱くなる。
その熱がまた氷になりそうで――歯を食いしばる。
(落ち着け。近接。触って、切る)
そのとき。
「サラ!!」
母さんの声が響いた。
叫びじゃなく、視線を集めるための声。
影から、母さんが一歩だけ踏み出す。
距離は詰めない。
それ以上は、越えない。
(……今ならいける)
母さんの声で、男の視線が一瞬だけ逸れた。
刃を握る手が、わずかに緩む。
(ここで終わらせる。)
俺は前に出た。
距離は、もう足りている。
狙うのは刃じゃなく、柄の付け根。手の内側。
――熱を通す。
ナイフだけが鳴いた。
「っ!!」
男が反射で手を離す。
刃が落ち、水音が弾ける。
俺はそのまま、手首を掴んだ。
(今度は――止める)
凍結。
指の付け根。手首。肘。
白が走る。
でも、それ以上は広がらない。
男の喉が鳴った。
声にならない息だけが漏れる。
白が走り、男の腕が落ちた。
抱えていた布が緩む。
「サラ!」
俺はサラを引き寄せた。
軽い。
震えてる。
体温がある。
――生きてる。
その事実だけで、視界が一瞬、白くなった。
同時に、護衛が飛び込んでくる。
「お前、何なんだ……!」
踏み込みは鋭い。
でも――足元が濡れている。
さっきの霜が残っていた。
護衛の足が滑る。ほんの一瞬。
「……っ、なんだ……!」
護衛の視線が、逸れない。
「化け物……!」
次の言葉は、出なかった。
俺はその前腕に触れた。
凍結。関節だけ。
氷が関節を噛み、腕が止まる。
「……っ、――」
声が、喉の奥で詰まった。
護衛の体が強張る。
膝が折れ、壁にもたれかかる。
歯を食いしばっている。
息はある。
でも、次の動きには繋がらない。
水音だけが戻ってくる。
反響が、急に遠い。
サラが俺の顔を見る。
涙でぐしゃぐしゃの目。
そこに、見たことのない俺への驚きが混じってる。
「……アオ……なに……いまの……」
俺は答えられなかった。
自分でも、さっきの“広がり”が怖い。
母さんが駆け寄って、サラを抱きしめた。
抱きしめるというより、押し付けるように、奪われないように。
「よかった……! よかった……!」
母さんが泣く。
サラも、ようやく声を出して泣いた。
俺は一度、深く息を吐いた。
体の奥がまだ冷たい。
魔力が抜けきっていない。
(……終わってない)
遠く。
水路の向こう、横穴の奥から――足音。
一人じゃない。
複数。
歩幅が揃っている。迷いがない。
(……来る)
母さんも気づいた。
サラを抱いたまま、顔を上げる。
目が「戻れ」と言っている。
でもまだ、母さんは俺を許してない顔だ。
それでも――体が動く。
サラを抱えたまま、後ろへ下がる。
生き残る方へ。
俺は母さんの肩に手を置いた。
「……行く。今」
母さんは首を振る。反対のまま。
でも足は止まらない。
サラが、俺の服を掴んだ。弱い力。
「……アオ……」
胸が少しだけ熱くなる。
でもその熱を、氷にしない。
(逃げ切る)
合流相手が姿を見せる前に、支路へ。
音がこちらを捉える前に、次の影へ。
俺は拳を握った。
もう一度だけ息を吸う。
次は――守る。
守るために走る。躊躇は捨てる。
足音が増える気配を背中に刺しながら、
俺は母さんとサラを連れて、暗い横穴へ踏み込んだ。




