第二十六話 追えない背中
地図を、もう一度見る。
指先が、自然と震えた。
淡い光点は、どこにもない。
視線を少し動かしても、指でなぞっても、反応はない。
消えた。
揺らいだわけじゃない。
一時的に見失ったわけでもない。
遮断された。切られた。捨てられた。
どれであっても、意味は同じだ。
――追跡は、もう自動じゃない。
胸の奥で、何かがきしむ。
痛みというより、歯車がずれるような感覚。
考えろ。
時間が経つと、何が起きる。
数分後。
地下を抜ける。別の経路に移る。
人目につかない場所で服を替え、荷に紛れる。
十分後。
位置は点じゃなくなる。線になり、面になる。
守護隊が来ても、それは「追跡」じゃない。
「捜索」だ。
探すという行為は、遅い。
そして――遅れた救出は、失敗に近い。
今なら、まだ近い。
今なら、判断一つで届く距離にいる。
ここで立ち止まったら、追跡は作業になる。
作業になった瞬間、取り返せる確率は、目に見えて落ちる。
俺は地図から目を離し、母さんを見る。
「……消えた、の?」
声は細く、掠れていた。
母さんの肩が、わずかに揺れている。
唇を噛みしめ、息を整えようとしているのが分かる。
泣き出す一歩手前。
いや、もう半分は泣いている。
「待ちましょう……守護隊が……詰所に行けば……」
言葉を選んでいる。
崩れないように、必死で抑えている。
正しい。
誰が聞いても、正しい判断だ。
でも――時間がない。
「間に合わない」
口から出た声が、あまりに冷えていて、少しだけ驚いた。
「今は、まだ近い。
でも時間が経つと、遠くなる」
母さんが俺を見る。
責める目じゃない。
命令を待つ目でもない。
縋る目だ。
「遠くなったら、探すことになる。
探すのは……遅い」
短い沈黙。
水音だけが、やけに大きく響く。
母さんは一度、目を閉じた。
深く息を吸って、ゆっくり吐く。
感情を、押し込める仕草。
「……危険よ」
「分かってる」
だからこそ、今だ。
母さんは、もう一度だけ地図を見た。
何も映っていない板を、しばらく見つめてから、頷く。
「……分かった。行きましょう。」
泣き声は、ここで止まった。
俺は母さんの手を取る。
強く握ったつもりはなかった。
でも、その手は確かに、引き寄せていた。
次の瞬間、世界が前に滑った。
地面を蹴った感触が、遅れて追いつく。
軽い。速い。
足が地面に触れている時間が、短すぎる。
母さんが息を呑むのが、背中越しに分かる。
俺自身も、把握できていない。
曲がり角。
距離。
壁。
表通りには出ていない。壁と影だけの細い道を縫っている。
視界の端で、全てが流れる。
――来る。
衝突の予感と同時に、胸元が白く光った。
防護具が自動で反応し、体が弾かれる。
壁が横に流れ、床が近づき、また遠ざかる。
胃の位置が、ついてこない。
制御できていない。
でも、止まれない。
空気が変わる。
湿った匂い。
鉄と水の混じった、冷たい空気。
錆びた柵。
下水道みたいな地下への入口。
気づいた時には、もう降りていた。
水音。
反響する足音。
気配がある。
囁き声。二人……いや、三人。
一人目が、こちらに気づいた。
正確には、「気づいたつもり」だった。
肩が動き、口が開きかける。
合図を出そうとした、その瞬間。
空気が、鳴った。
音じゃない。
破裂に近い圧が、通路を叩いた。
男の体が、横に跳ねる。
いや、跳ねたんじゃない。押し出された。
背中から壁に叩きつけられ、石組みが崩れる。
濁った水が跳ね上がり、通路を濡らす。
二人目が反射的に後退する。
距離を取ろうとした判断自体は、正しい。
――だが、遅い。
踏み込む感触が、ほとんどない。
足が地面を蹴った記憶より先に、視界が詰まる。
胸元。
衝撃。
男は声を出せなかった。
喉が鳴る前に、床へ叩き伏せられる。
水音だけが、遅れて響いた。
三人目が、ようやく理解する。
これは“奇襲”では片づかない。
速さ、という言葉も足りない。
反応より先に結果が届く。
次元が違う。
逃げようと体を捻った、その瞬間――
俺は、さらに踏み込んだ。
通路の空気が、潰れた。
衝撃で視界が白く飛ぶ。
体が浮き、天井近くの壁へ叩きつけられる。
鈍い音。
息が詰まる音。
俺は、減速していない。
止まってもいない。
敵の動きが遅いんじゃない。
俺の方が、世界からはみ出している。
――静かだ。
水音だけが残り、他の気配が消えていく。
倒した、という実感が、ようやく追いつく。
通路に残ったのは、崩れた石と、水音だけだった。
――斥候がいた。
斥候が配置される場所は、通過点か、守るべき対象の手前だ。
サラが近い。
通路が、唐突に開けた。
空間が、変わる。
音は残る。だが、壁に奪われていく。
水の滴る音が、遠くで反響している。
呼吸の音すら、どこかへ散っていく。
広い。
天井が高く、壁が遠い。
足音を立てれば、何倍にもなって返ってくる場所。
人を集めるのに、向いている。
気配はある。
はっきりと。
塊だ。
集まっている。
ここは、受け渡しのために作られた場所だ。
合流するための空間。
母さんの呼吸が、わずかに乱れる。
言葉はないが、感じている。
ここにいる、と。
暗がりの向こう。
人影が、動いた。
足音じゃない。
鎖の、乾いた擦れる音。
金属が揺れた気配。
それだけで、十分だった。
ここに来る理由も、
ここで止まる理由も、
全部、繋がる。
胸の奥で、冷え切った思考が、確信に変わる。
――見つけた。




