第二十五話 最悪の状況
ちくしょう。
吐き捨てた瞬間、胸の奥で煮え立っていた熱が、一気に沈んだ。
――いや、違う。沈んだんじゃない。
怒りが底に落ちて、その上に、別の何かが被さった。
サラがいない。
体のどこかが、ずっと叫んでいる。
なのに頭だけが、異様なほど冷えていく。
怒鳴ると思った。取り乱すと思った。
でも、実際は逆だった。
視界は狭まり、音と動きだけがやけに鮮明になる。
……変だな。
怒っているはずなのに、頭だけが妙に冷えている。
体は子供のまま。息は浅く、脚も短い。
なのに思考だけが、無理やり一段引き上げられていた。
地球にいた頃、追い詰められた場面で勝手に頭が回り出した――あの感覚だ。
落ち着け。
今は泣く場面でも、怒鳴る場面でもない。
ここでは、迷った方が先に終わる。
俺は足を止めたまま、指先を強く握り込んでいた。
震えは止まらない。
――焦っている。だからこそ、考えろ。
最初におかしかったのは、人の流れだった。
大通りが詰まり、肩が当たり、視線が自然と逸れる。
逆らうと余計に遅れる。裏に逃げたくなる――そう仕向けられていた。
誘導。
露骨じゃない。だから気づいた時には、もう選択肢が削られている。
路地に入った直後の銃撃も同じだ。
音が壁で跳ね、位置が掴めない。
弾は防護具に弾かれる。撃ち漏らしじゃない——正面から抜けないと知っている。
殺すためじゃない。
足を止め、視線を上に向けさせ、守りを固めさせるための撃ち方だ。
そこに煙が重なった。
視界が潰れ、距離感が狂う。
守る側は、守る対象を見失った瞬間に破綻する。だから煙は最悪だ。
直後の近接は、完全に計算されていた。
壁から壁へ跳ぶ。助走も溜めもなく、距離だけが一気に詰まる。
筋力じゃない。明らかに魔法だった。
一人芸じゃない。
跳べる奴を前に出し、隊形を崩したところを別班が刈り取る。
役割分担がはっきりしている。現場慣れした連中だ。
守護隊の二人が削られた。
膝と腕。致命傷じゃないが、守る位置にはすぐには戻れない。
上を見る役が落ち、前の壁が薄くなる。
――穴が空く。
その穴を、敵は待っていた。
その隙に、サラが消えた。
喉の奥で名前が引っかかる。
追いたい。叫びたい。
でも追えば母さんが抜かれる。母さんが抜かれたら、全部終わる。
分かっているのに、指先の震えが止まらない。
くそ。
俺は、何ができる?
さっきの魔法は出た。確かに出た。
でも制御はギリギリだった。
母さんのすぐ横でやったら、敵だけじゃなく周囲ごと吹き飛ばす。
最近分かってきた……これは“風”だけじゃない。
体に使えば、速くなる。高く跳べる。
相手に使えば、止められる。崩せる。吹き飛ばせる。
便利すぎる。
——便利すぎて、怖い。
(この先、どこまで行くんだ)
その答えを考える前に、背中がすっと冷たくなる。
これを間違えたら、
守るつもりのものを、俺が壊す。
俺は息を吸い込み、肺が痛むのを無視した。
その時だった。
路地の先で足音が一度途切れ、さらに奥で別の音が重なる。
石を踏む数が、明らかに増えている。
追撃。
攫って終わりじゃない。後始末の部隊だ。
口を塞ぎ、証拠ごと消すつもりだ。
――ここにいれば、母さんも危ない。
「奥方、アオ様」
低い声。ソウマだ。
煙の薄い場所で、母さんを背にして立っている。
呼吸は安定しているが、右腕の動きがわずかに硬い。
無理をしている。分かる。分かってしまうのが、嫌だ。
「追い込みです。この場に留まれば包囲されます」
余計な言葉がない。現場の判断だ。
「救援は出しました。守護長にも、詰所にも。
……ただ、間に合う保証はありません」
母さんが唇を噛む。
「サラは……」
声が揺れかけて、止まる。
ソウマは答えず、薄い金属板を差し出した。
淡い光点が動く地図。ひとつだけ、速い。
「追跡用の印です。今は、まだ生きています」
生きている。
その一言が、胸を締めつける。
――なら、取り返せる。
「これを持って詰所へ。合流してください。追うのは我々が――」
その先は言わなくても分かる。
ここに残り、追撃を止めるつもりだ。
母さんと目が合う。
言葉はいらない。二人とも理解している。
「分かった。……母さん、行こう」
肩に置かれた手は、強く、震えていなかった。
「煙と跳躍が続きます。上と背後を切らないで下さい」
十分だ。
走り出した直後、煙の向こうに人影が二つ浮かんだ。出口側だ。
――早い。もう回り込んでる。
母さんが息を呑むのが、背中越しに分かった。
その一瞬で、相手の視線が母さんに走る。
あ、こいつら――
狙いが最初から母さんだ。ここで逃がす選択肢が、最初からない。
止める気はない。
絡めて引いて、倒して、持っていく。
俺は止まらなかった。
力を使う。
足元の空気が、ぎしりと軋んだ。
石畳の砂が一斉に跳ね、視界が白く弾ける。
踏み込む。
――近い。
短い金属棒が振り上がる。ワイヤが光る。
間に合わない、と一瞬だけ思った。
熱を流す。
金属が悲鳴を上げ、赤く光った。
相手の指が弾かれた、その刹那――
空気が破裂した。
男の体が浮いた。
背中から壁に叩きつけられ、石壁に亀裂が走る。
破片が雨のように降り、衝撃が路地に反響した。
もう一人が踏み止まろうとして、遅れた。
風に煽られ、足を取られ、地面を転がる。
……やりすぎだ。
神域じゃ、せいぜい風が強くなる程度だった。
なのに外界じゃ、速さも、跳躍も、押し出しも、全部が剥き出しになる。
何でも出来そうで、何でも壊せる。
母さんがすぐ後ろにいる今、この力は――危なすぎる。
母さんの手を引いて抜ける。
背後で衝突音が重なり、ソウマたちが時間を作ってくれているのが分かる。
走る。呼吸を合わせる。判断を増やさない。
地図を見る。
光点は、まだ動いている。
下水道みたいな、街の底へ続く入口が近い。
「アオ……サラは……」
「生きてる。生かして運ぶ道具を使ってた」
言い切った瞬間、地図の光点が揺れた。
――消えた。
世界から音が抜け落ちた気がした。
指で押さえても、戻らない。
印が、消えた。




