第二十二話 緊急事態
戻ると言われても、すぐには動かなかった。
昼の店内は、相変わらず騒がしい。
笑い声。
皿の音。
酒の匂い。
外の世界は、何も変わっていないように見える。
でも――
さっきまでと、空気の質が違う。
ソウマは、守護隊員と短く視線を交わしただけで、頷いた。
声は出さない。
それで十分らしい。
父さんが、母さんの肩にそっと手を置いた。
「……少し、向こうで話す」
それだけ言って、店の外へ出る。
母さんは一瞬、驚いたような顔をした。
でも、何も言わずに立ち上がった。
サラが、きゅっと唇を噛む。
(……なにか、あった)
サラには分かった。
理由は分からないけど、
「楽しいまま帰る予定」が、もう消えている。
母さんが戻ってきたとき、
顔色が、少しだけ変わっていた。
驚いた、というより――
信じたくない話を聞いた顔だ。
父さんは、静かに言った。
「緊急だ」
一言だけ。
「百年以上、レイラン近辺では確認されていない黒獣が出た」
店の喧騒が、一瞬だけ遠くなる。
「成獣だ。
近くの街が襲われた。
こちらへ向かっている可能性もある」
説明は、それ以上しなかった。
サラは、思わず母さんの服の裾を掴んだ。
「……こく、じゅう?」
声が、少し震えた。
父さんは、サラを見下ろして、はっきり言った。
「今は、まだ遠い」
それが、安心の言葉でないことを、
サラはなんとなく分かってしまった。
「だが、静かなうちに動く」
父さんは続ける。
「父さんは、これからレイランの守護隊詰所へ向かう。
状況次第で、緊急出動を判断する」
ソウマが一歩、前に出た。
「隊を二手に分けます」
淡々とした声。
「一隊は、守護長に同行。
残りで、奥方とお子様方を護衛し、戻ります」
サラの胸が、きゅっと縮む。
(……いっしょじゃ、ない)
母さんが、少しだけ言葉に詰まってから頷いた。
「……分かりました」
父さんは、母さんを見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「すぐ戻る」
それ以上は言わない。
だからこそ、重い。
店を出ると、街の景色が流れていく。
魔石を扱う露店。
刻印の入った道具を調整する魔法職人。
防具の留め具を直している冒険者。
「黒獣が成獣って話だ」
「冗談だろ……あれが出るなら、街ひとつじゃ済まねえ」
「さすが魔界のふもと、レイランだな。
古い冒険者が生き残る街、ってのも伊達じゃない」
低い声が、あちこちで交わされている。
誰も叫ばない。
誰も逃げていない。
それが逆に、怖い。
「どうせ魔法も満足に使えねえ連中の街だろ」
どこかで、そんな声も聞こえた。
サラは、ぎゅっと拳を握った。
(……ひどい)
でも、その声を出した人は、もう別の話をしている。
差別も、恐怖も、
この街では「よくある話」なのだ。
歩きながら、アオは気づいていた。
人の流れが、微妙に変わっている。
外へ向かう者と、内へ戻る者。
(……まだ、騒ぎになっていないだけだ)
父さんは、途中で足を止めた。
「ここから先は別行動だ」
ソウマが即座に頷く。
「必ず、安全圏のシェイラまでお送りします」
母さんが、サラの肩に手を置いた。
「大丈夫。すぐ帰るわ」
サラは、うなずいた。
うなずいたけど、
胸の奥のざわつきは、消えない。
父さんは、最後に一度だけ振り返った。
アオと、サラを、まっすぐ見る。
「……騒がしくなる前に戻れ」
それだけ言って、背を向けた。
街は、まだ静かだ。
人は歩き、
店は開き、
笑い声もある。
でも、サラには分かってしまった。
(……平気なふりをしてるみたい)
戻る隊列が動き出す。
背後で、何かが始まりかけている気配だけを残して。
黒獣は、まだ見えない。
悲鳴も、まだない。
それでも――
レイランの空気は、確実に変わり始めていた。




