第二十一話 初めてのレイラン
境界を越えた瞬間――
俺は、反射的に息を止めた。
痛いわけじゃない。
押される感じでもない。
ただ――
世界が、急に近づいた。
(……うわ、重い)
胸の奥に、見えない流れが一気に入り込んでくる。
空気が重い。
というより、多い。
皮膚の裏がぞわっとする。
頭の奥が、じんわり熱を持つ。
(なにこれ……)
意識を向けていないのに、
胸の奥に、勝手に集まってくる。
押さえようとしても、止まらない。
流れがある、というより――
最初から、ここに“敷いてある”みたいだ。
(……やば)
今、なにかやったら――
うまくいく気が、してしまう。
歩けないほどじゃない。
でも、はっきり分かる。
――ベイラやシェイラと、まるで違う。
俺が立ち止まるより一拍遅れて、
サラが声を上げた。
「……あれ?
なんか、体が軽い!」
弾んだ声。
本当に、ちょっと楽しそうだ。
俺とサラで、感じ方は違うのに、二人とも顔が緩んでた。
母さんが一瞬だけ俺を見る。
心配そうな目。
俺は、なんとかうなずいた。
視界が開ける。
――街だ。
ちゃんとした、街。
舗装された道。
石と金属が混じった建物。
高さも形も、まちまち。
荒れてはいない。
汚れてもいない。
でも――
シェイラみたいに、整っていない。
排水溝が道の脇を走り、
水の音と、油と、焼いた食べ物の匂いが混ざっている。
人が、近い。
肩が触れそうな距離で、
声と足音が絶えず流れている。
(……外、だ)
その実感が、胸の奥で跳ねた。
(やばい)
(これ、普通に――)
楽しい。
思わず、背後を振り返る。
――世界樹。
でかい。
想像してたのと、桁が違う。
幹は建物みたいに太く、
枝は空を覆うように広がっている。
(本物だ……)
本で読んだ名前じゃない。
神話の挿絵でもない。
現役の巨大構造物として、そこに立っている。
根元の周囲には柵が張られ、
人と物の流れが途切れない。
荷車。
木箱。
金属部品。
人力の荷車の間を縫うように、
原始的な形の車が、低い音を立てて進んでいく。
人が中へ。
人が外へ。
管理棟らしい建物が並び、
警備の視線もはっきり分かる。
(神木っていうより……)
(でっかい出入口だな、これ)
正直、それだけでテンションが上がった。
街へ視線を戻す。
人影が、さらに増える。
体格の大きな影。
耳や尻尾を隠そうともしない者。
(……多っ)
シェイラでも獣人は見たことがある。
でも、こんな数は初めてだ。
「鬼人だ」
父さんが静かに言う。
「犬人もいる」
少し先を示す。
「……凡人だ。
魔法が苦手な人たちだな」
短い説明。
でも、十分すぎる。
(ファンタジーだ……)
(本物の、ファンタジー)
頭で知ってたものが、
現実として歩いている。
店が並び始める。
修理屋。
露店。
見たことのない部品を扱う店。
原始的な形の車が、音を立てて進んでいく。
馬はいない。
(魔法の世界って、もっとフワッとしてると思ってたけど……)
(普通に、生活してるな……)
俺がそんなことを考えている横で、
サラは目を輝かせている。
「ねえ、あれ何?」
「この匂い、絶対おいしいやつだよね?」
無邪気。
そのまんま。
(……いや、そりゃ楽しいよな)
市場の一角で、
小さな光が弾いた。
一瞬、火の気配。
でも、狙った場所と――
ほんの少し、ずれている。
木箱の角が焦げた。
「……替え時だったな」
店主が、気にも留めずに言う。
守護隊の一人が一瞥して通り過ぎる。
「珍しくない」
(……今の)
(なんか……噛み合ってない)
理由は分からない。
でも、気持ち悪さだけが残る。
昼食を取るため、店に入る。
狭いが、活気がある。
皿の音。
笑い声。
湯気。
サラが守護隊の一人と話して、笑っている。
その様子を見て、肩の力が一瞬抜けた。
――そのとき。
外から戻った守護隊員が、低く何かを告げる。
空気が、切り替わった。
街の喧騒はそのままなのに、
守る側だけが、別の顔になる。
ソウマが俺たちを見る。
「今日は、このまま戻ります」
理由は言わない。
街は、相変わらず賑やかだ。
誰も、不安そうじゃない。
(……安全、なんだよな)
そう思わせるだけの空気が、ここにはある。
でも、さっきの“ズレ”が、頭の片隅に残ったままだ。
俺は、無意識に拳を握る。
この街は、
まだ何も起きていない。
――今は。




