第十八話 灯の消えた家
翌朝。
サラはまだ布団の中で小さく丸まっていた。
すぐ隣では、幼いグリフォンのフィオが、あたたかい羽でそっと寄り添っている。
フィオは鼻先でサラのほっぺをつつき、羽を震わせた。
「……サラ……いたい……?」
その小さな声だけで、胸がじんと熱くなる。
「……だいじょうぶ……ちょっとだけ……」
本当は全然だいじょうぶじゃない。
でもフィオだけには、こうして腕を回せた。
外では、いつもの朝ごはんの音がしていた。
全部知っているはずなのに、今日は遠かった。
(……顔、出せない……)
まぶたは重く、胸の奥はまだ痛む。
昨日の言葉が、断片になって浮かんでくる。
──血がつながっていない。
──シェイラへ行く。
──長く帰れない。
昨日まで“当たり前だと思っていた日常と未来”が、ひっくり返った。
(アオは悪くない……わかってる……
でも……どうして、わたしだけ知らなかったの……)
(あんなに一緒に笑ってたのに……
なんで“その大事なこと”だけ、わたしだけ知らないの……)
(わたし……家族だと思ってたのに……)
“学校いこうね”と笑っていた自分だけが、別の場所にいたみたいだった。
(アオの前で泣いたら……ほんとに“お別れ”になっちゃう……)
だから布団から出られなかった。
***
食卓にはサラの席だけが空いていた。
父さんと母さんは扉の前で立ち止まっている。
ノックして返事がなかったときの沈黙が、怖いのだ。
アオは膝の上の手を強く握っていた。
(サラ……)
謝りたいのに、言葉が喉に貼りついたまま動かなかった。
ミケがぽつりと言う。
「……サラ、きのういっぱい泣いたニャ……
今日は……そっとしとくニャ……」
隼丸は窓の外を見たまま、静かに言った。
「サラはまだ“昨日”から戻れぬ。
声をかけても届かん。」
アオの拳が震えたが、その瞳は折れていなかった。
***
サラは学校に行き、友達とは笑えた。
先生にも、いつも通りに返事をした。
誰も、違和感に気づかなかった。
でも家に帰ると、声が消えた。
玄関でアオとすれ違いそうになると、
(……だめ……顔をあげたら泣く……)
胸が跳ね、足が止まる。
視線を落としたまま通り過ぎるしかなかった。
「ただいま」も言えない。
「おかえり」も返せない。
(話したいのに……
アオを見ると心がずれて……息ができなくなる……)
両親の声にも短くしか返せなかった。
そして胸の底で、小さな声が疼く。
(わたしだけ……知らなかった……)
アオが距離を置いてくれているのも分かる。
その優しさが、また痛かった。
***
アオは裏庭で鍛錬を続けていた。
風も熱も、なかなか集まらない。
隼丸が言う。
「痛みを抱えたまま進む者は、強くなる。
……アオ、お前は止まっておらん。」
アオは黙ってうなずき、再び手をかざす。
揺れながらも前に進もうとする光が、その目にあった。
ミケはサラの部屋の前で、尻尾をぱたりと落とす。
サラの部屋には、心配そうに寄り添うフィオの姿があった。
***
夏休みは、気づけば始まっていた。
母さんが散歩に誘っても、
父さんが話しかけても、
サラは小さく首を振るだけ。
(笑いたいのに……
アオの前に立つのが、こわい……)
そしてもうひとつ。
(“この前のこと”を口に出したら
ほんとうに全部、変わっちゃう気がする……)
優しい声ほど胸が締めつけられた。
***
夜。
子どもたちが寝静まったころ、居間から両親の声が聞こえた。
「……急すぎたのよ。
サラには重かった。」
「守ったつもりだったが……
結果として、あの子をひとりにしてしまった……」
「このままじゃ……アオを送り出せないわ……」
サラは布団の中で息を止めた。
(ごめん……どうしたらいいの……)
涙はもう出ない。
ただ、胸が静かに痛んだ。
***
その頃、父さんが静かに言った。
「……家の中で待っていても、変わらん」
言い切るまでに、わずかな間があった。
扉の向こうで布団に潜ったままのサラの姿が、ふっと脳裏をよぎった。
「レイランへ行く。
明日、視察申請を出す。」
母さんは息を呑む。
「あの外界に……? 本当に二人を?」
「ああ。
もともと、アオにはシェイラに行く前に世界を見せる予定だった。
そしてサラにも──
二人で“最初に見る景色”を残してやりたい。」
しばらく沈黙してから、母さんが頷いた。
「……行きましょう。
あの子たちのために。」
居間の空気がそっと動いた。
まだサラの部屋には届かない。
けれど──
止まっていたサラの時間に、
ほんのわずかに“風”が触れた夜だった。




