第十六話 言えない約束、言うと決めた朝
朝の光が静かに家の中へ差し込むころ、
サラは夏用コートの襟を整えながら鏡をのぞき込んでいた。
(よし……今日もちゃんと起きてるよね、アオ)
アオは、ある日を境に毎朝必ず早起きをするようになった。
裏庭で一人、黙々と体操をする姿を、サラは何度も見ている。
(毎日続けるのって、すっごく大変なのに……
アオは一回だってさぼらないんだもん。えらいよね)
胸の奥がふっとあたたかくなる。
そんな自慢の弟に「朝ごはんできたよ」と言いに行くのは、
サラのひそかな楽しみだった。
玄関を出て裏手へ回ると、
朝の空気の中にアオの小さな背中が見えた。
右手をそっと上げ、風を確かめるように動かしている。
(今日もしてる……ほんとに毎日だね)
誇らしい気持ちが胸いっぱいに広がり、
サラはこらえきれず弾む声で叫んだ。
「アオー!! おはよう!! 朝ごはんできたよー!!」
弾む声が裏庭いっぱいに広がり、
サラが夏用のコートを揺らしながら駆けてくる。
「今日もちゃんと体操してたんだね! えらいよ!」
そう言うなり、くるっと回ってコートの裾を揺らした。
「見て見て! 今日からこれなんだよ。かわいくない?
ちょっとひんやりして気持ちいいの!」
「うん。すごく似合ってるよ」
「えへへ。アオに言われるとうれしいんだよね〜!」
髪がふわりと揺れ、朝日の光をやわらかく跳ね返す。
背も少し伸びて、表情にもお姉ちゃんらしさが増えた。
それでも俺を見る目は、昔と変わらずまっすぐで優しい。
「ねぇアオ。最近、ほんとに“お兄さん”みたいになってきたよね。
背も伸びたし、前より落ち着いてるし」
「そうかな」
「そうだよ。でもね……
アオがどれだけしっかりしてきても、
私はお姉ちゃんなんだから!」
サラは自慢げに胸を張った。
「学校ではね、アオが困らないように、
ちゃんと助けてあげるんだからね!」
胸の奥があたたかく満ちた。
「さ、行こ! 冷めちゃうよ!」
そう言って、アオの手を引いた。
家に入った瞬間、あたたかい匂いがした。
パンとスープが混ざった匂い。
それだけで、胸の奥の緊張がほどけていくのが分かる。
食卓のほうが、部屋の中でいちばん明るい。
ママが皿を並べている音が、落ち着いた速さで続く。
湯気が窓の光を受けて、白い糸みたいに上がっていった。
ミケが足元をすり抜ける。しっぽが触れて、急かされた気がした。
サラは笑いそうになって、口元だけを引き締める。
こういう朝、パパは何も言わない。その分、視線だけがよく見える。
アオはもう座っていた。静かな顔。
でも、サラは知っている。
アオは、こういうときほど、こちらを見ている。見ていないふりをしながら。
(……今日も、同じ朝)
なんでもない、いつもの朝。
でも、サラはこういう時間が好きだった。
食後、通学の時間になって、アオと並んで家を出る。
森の影は涼しくて、
一歩抜けると、夏の空気が一気に押し寄せてきた。
通学用の“乗り場”までは、ほんの数分。
「ねぇアオ。今日の放課後ね……説明会があるんだよ!」
「説明会?」
「うん! 新しく入ってくる子たちを助ける“お世話係”のね!」
胸を張って言う。
「わたし、立候補して──ちゃんと合格したの!」
「すごいじゃん」
「でしょ!」
自然と声が弾む。
「だって、アオが来るんだもん。
ちゃんと準備しておきたかったの!」
「新しい子って、最初は分からないこと多いでしょ?
だからね、アオが困らないように、
わたしが全部教えてあげるんだから!」
アオは少しだけ間を置いて、うなずいた。
その一瞬の間に、
サラは気づかなかった。
だって、それよりも──
「帰ったらね、説明会で聞いたこと全部話すから!
夏休みの計画も立てようね!」
「約束だよ!」
「……うん」
それで十分だった。
空飛ぶ自転車にまたがって、
ふわりと浮き上がる。
「行ってきます!」
「気をつけて」
手を振りながら、
アオの姿が小さくなっていくのを見送る。
(今日は、いい一日になりそう)
そう思って、サラは前を向いた。
「アオ……少し、いい?」
家に戻る途中、母さんが、声を落として呼んだ。
お茶を淹れながら、そっと言葉を選ぶように話しはじめる。
「あなたがみんなのために頑張っているのは分かるの。
あの日からずっと……本当に努力してきたものね」
そこでいったん言葉を切り、母さんは一度だけ深く息を吸った。
「でもね……
あなたをひとりで外へ送り出す覚悟を、
わたしはまだ作りきれていないの」
母さんは湯気の向こうで、一度だけ目を伏せた。
「シェイラへ行くことを止めたいわけじゃないの。
ただ……あなたがいなくなる日を思うと、胸が痛くなるのよ。
ベイラにいたって学べることはあるし……ほんの少し遅らせるだけでも」
「……だめなんだ」
驚くほど小さな声が、自分の口から出た。
「俺は、行かなきゃいけない。
だって……そう決めたから」
母さんの表情には、寂しさと誇らしさが同時に浮かんでいた。
「……サラには、ちゃんと話すつもりなのよね?」
「……うん。
嘘をついてるみたいで、つらい」
それでも、目を逸らさずに続けた。
「でも……話すって決めた。
今夜、父さんが帰ったら……一緒に」
母さんはそっと微笑んだ。
「……アオ。強いわね。
でも、強い子ほど無理をしやすいの。
覚えておいてね」
夕食はいつも通り。
サラは学校の出来事を楽しそうに話し、
父さんは優しく相槌を打ち、
母さんは静かに笑っていた。
ただ──父さんはときどき、何かを決意するように
俺とサラの顔を見比べていた。
胸の奥に、静かな痛みがひとつ落ちた。
食後、父さんが静かに席を立つ。
椅子のきしむ音が、いつもより重く響いた。
「サラ、アオ。
二人とも、来てくれるか。
大事な話がある」
サラがきょとんとした目で俺を見る。
心臓が、ひとつ強く跳ねた。
(……ついに来た)
夜の静けさが、ゆっくりと形を変えていく。




