第十四話 二年後の夏
朝の空気は、静かに熱を含んでいた。
森の奥から流れてくる湿った風が、肌にやわらかくまとわりつく。
裏庭にはまだ誰もいない。
俺はそこで、右手をゆっくりと掲げた。
本来、このベイラでは魔法は通らない──
小さいころから、ずっとそう聞かされてきた。
それでも俺は、あの日から知っている。
自分だけは、ほんのわずかでも“通せる”ということを。
理由なんて分からない。
でも、できる。
だから鍛える。
二年間、ずっとその積み重ねだ。
深く息を吸い、指先へと意識を研ぎ澄ます。
何度も繰り返してきた動作。
右手へ寄ってくる小さな風の流れが、今日もかすかに応えてくれる。
草がそっと揺れた。
渦が、昨日よりほんの少し長く残った。
(……よし。悪くない)
左手へ意識を移す。
寄ってくる熱の気配は弱く、すぐに散ってしまう。
それでも“応えようとする何か”が、確かにある。
俺は世界を救う存在だと言われた。
どうしてそうなるのかは、まだ分からない。
それでも──
強くならなきゃいけない。
この二年間で揺れたことのない思いだった。
(ここではほとんど力が通らない。……外に出れば、どうなるんだろう)
胸に浮かんだ疑問は、静かに沈んでいく。
気配をそっと手放したとき、森の奥で枝が揺れた。
振り向くと、隼丸が静かにこちらを見ていた。
「今朝の風は、よく整っていた」
それだけを告げて、隼丸は森へ戻っていった。
口の端が、勝手に上がった。
(……もっと上手くなりたい)
訓練を終えて家へ戻ると、まだ家の中は静かだった。
今日は学校が休みの日。
休日の朝は、俺がサラを起こしに行く。
サラの部屋の前で、そっと扉を叩く。
「サラ、起きる時間だよ」
「ん……アオ……? もう朝……?」
寝ぼけた声が返ってくる。
思わず、小さく笑ってしまった。
「着替えたら朝ごはんだよ。手伝ってくるね」
「……うん……」
キッチンでは、母さんが準備を始めていた。
「アオ、おはよう。今日も早いのね」
「訓練してきた」
「ふふ。えらいわね。じゃあお皿お願い」
父さんも加わり、テーブルには湯気の立つスープと焼きたてのパンが並ぶ。
ミケはパンを狙って跳ね回り、
サラは寝癖のまま椅子に座ってあくびをしている。
その足元で、フィオが小さく丸くなっていた。
「アオ〜、そのパン……ミケにちょっと……!」
「だめ。ミケの“ちょっと”は信用できない」
「むぅ……!」
そんなやり取りに父さんが笑い、母さんが肩を揺らす。
家の中がゆるやかに、あたたかく満ちていく。
(……こういう時間、好きだな)
胸の奥に、じんわりと広がる思いがあった。
朝食のあと、サラが嬉しそうに声を弾ませた。
「アオ、もうすぐ夏休みだよね!
入学式もその後すぐで近いし、なんかすっごく楽しみなんだ!」
「そうだね。たのしみだね」
「夏休みに入ったらプール行こ!
水、すっごく気持ちいいんだよ。」
「うん。行こう」
サラの笑顔は眩しくて、
それを見るだけで胸の奥があたたかくなる。
でも、その奥に──
小さな痛みのようなものが、静かに沈んだ。
夏が終わる前に、俺はこの家を離れる。
(サラ……どう思うかな)
言葉にできないまま、思いは胸の底へ落ちていく。
(言わなきゃいけない。……分かってるのに)
外では、蝉の声が聞こえはじめていた。
風は夏の匂いを運び、空はどこまでも明るい。
幸せな日常は、何事もなく流れていく。
まるでこの先も、ずっと続くかのように。
(もう少しだけ……このままでいたい)
そんな願いを胸に抱えながら、
アオの“最後の夏”は、静かに始まっていった。




