第十三話 英雄だった男の、始まり
話が終わったあと、しばらく誰も何も言わなかった。
部屋は同じ光のままなのに、空気だけが違って感じる。
さっきまで胸の中で暴れていた何かが、静かに座り込んだみたいだった。
(……そうか)
自分で、自分のことを言葉にできる。
(“落ちてきた”んだ、ぼくは)
雪の夜。
見たこともない布。
母さんの腕。
父さんの決断。
サラの「ななしちゃん」。
全部が一本の線になってつながった。
今までのぼくの中には、「カイル」と「アオ」が、バラバラにあった気がする。
過去の“誰か”の記憶と、今の“ぼく”の暮らし。
(どっちかが本物で、どっちかが偽物なんじゃないかって、ずっと怖かった)
(心は一つなのに、体が追いつかない……そんな感じがずっと続いていたんだ)
でも今は違う。
(カイルとして生きて、死んで。
それから、碧としてここにいる)
順番が、やっと分かる。
前と今と、これからが、“同じ線の上”に並んでくれた。
(あ。止まれ、って思ったら……本当に止まる)
変なことに気づいて、少し笑いそうになる。
(前は、“止まれ”って思っても止まらなかったのに)
今は、“止まりたい”と思えば、ちゃんと止まる。
“言いたい”と思えば、少し待ってから言える。
胸の中の“熱”も、消えたわけじゃない。
でも、さっきみたいに暴れてはいない。
ただ、そこにある。
右手の奥のほうで、小さく灯っている。
「アオ?」
母さんの声がして、顔を上げる。
「……だいじょうぶ?」
「うん。……なんか、変な感じ」
「変な感じ?」
「楽になった感じ」
自分で言って、少し不思議になる。
でも、それが一番近い。
父さんが、じっとぼくを見ていた。
その目が、少しだけ驚いているようにも見える。
「怖くないのか?」
「こわいよ」
即答して、自分でも笑ってしまう。
「世界のこととか、英雄とか、……そういうの考えたら、まだこわい」
「でも――」
言葉を探す。
さっきまでみたいに勝手に出てこない。
ちゃんと探してから、口にできる。
「“子どもじゃなくなる”のが、一番こわかったんだけど……
それは、もうあんまり、こわくない」
父さんの目が、ほんの少し柔らかくなる。
「どうしてだ?」
「だって――」
胸の真ん中にあるものを、そのまま言葉にする。
「どっから来ても、何ができても、
ぼくは“碧”なんでしょ?」
母さんが、目元を押さえた。
「……ええ。そうよ」
「じゃあ、“古い記憶があること”も、“アオであること”も、
全部まとめて、ぼくなんだと思う」
言ってみたら、すとんと胸の中に収まった。
(そうだ。どっちかを捨てなくていいんだ)
カイルとしての記憶が、頭の中で静かに並び直していく。
スタジアムの光。
戦場の熱。
後悔。
そして、最後の白い光。
それが今は、ぼくを壊す材料じゃなくて、
「こういう失敗を二度としたくない」という“願い”になっていく。
(ああ……これが、本当に“思い出した”ってことなんだ)
前みたいに、急に映像が襲ってきて息ができなくなる感じは、もうない。
見ようと思えば見れるし、見たくなければ扉を閉めておける。
「アオ」
父さんが、ゆっくりと言う。
「今すぐ、何か決めなくていい。
英雄になるかどうかも、世界のことも、まだ遠い話だ」
「うん」
「今、決めてほしいのは一つだけだ」
父さんは、ぼくの目をまっすぐ見た。
「お前は、“俺たちの子”でいてくれるか?」
さっきと違って、言葉は勝手には出ない。
でも、迷いもなかった。
「……いてもいいなら、いたい」
それが、今の全部だった。
母さんが、笑いながら涙をこぼした。
「もちろんよ。ずっといて。
つらいことがあったら、抱え込まないで、ちゃんと見せて」
父さんも、やわらかく頷く。
「泣いてもいい。弱音を吐いてもいい。
“子どもでいること”を、誰にも譲るな」
胸の奥で、なにかが外れる音がした気がした。
今まで、ずっときつく締めていたベルトみたいなものが、
ふっと緩んで、息が大きく吸えるようになる。
(……ああ)
つきものが、落ちた。
そう言うと、ちょっと大げさみたいだけど、
本当にそんな感じだった。
「ねえ、父さん」
「なんだ?」
「ぼく、きっといつか――
世界のことも、英雄のことも、ちゃんと考えると思う」
父さんは、何も言わず、ただ聞いている。
「でも今日は、もういい。
今日は、“ただのアオ”でいたい」
母さんが笑った。
「ええ。今日は、もう遅いものね」
父さんも、口元をほころばせる。
「じゃあ、“ただのアオ”を寝かせるとするか」
「まだ寝ない」
口が勝手にそう言って、ぼくは自分で笑った。
「少しだけ、このままがいい。
……起きてる、碧でいたい」
その言葉に、父さんも母さんも何も足さず、ただそこにいてくれた。
胸の中の“カイル”も、“アオ”も、もう喧嘩していない。
全部まとめて、“碧”という一つの名前の中に、静かに座っている。
……でも、“ただのアオ”でいる時間は長くない。
──そしてその奥で、ひとつだけ、消えない火が残っていた。
胸の奥で、言葉が形を変える。
ぼく、じゃない。
ここだけは、俺だ。
(世界が滅びの道を辿るなら――)
暗闇は、もう怖くなかった。
眠れなくても、目を閉じることはできた。
戦う理由が、ひとつできたから。
――今度こそ守り切る方法を探す。そして、世界を救ってやる。




