第九話 右手の違和感
宙船の事故から三日がたった。
外側は完全にいつも通りだった。
森は静かで、光は柔らかくて、パンの匂いはちゃんと朝に来る。
でも、内側だけが別物になっていた。
右手のひらだけが、まだ熱を覚えている。
火傷したわけでもないのに、熱が“いる”。
(なんで、あんなことができた?)
サラは庭で絵を描いていた。
青い絵の具が指について、頬にもついている。
「アオ、見て! そらふねだよ」
紙には、宙船と森と星みたいな道。
その横に、小さな黒い点が二つ描かれていた。
「ここ、サラで、こっちがアオ」
それだけの絵なのに、胸の奥がほんの少し重くなる。
嬉しい。
自分が“いる”場所を描いてもらえるのは嬉しい。
同時に、何かを突かれる。
(あの時、サラの点を守れた……それは確かだ)
ミケはいつも通りだ。
椅子に飛び乗ってパンを狙い、母さんに軽く押し返されてしょんぼりする。
その“普通”が、逆に落ち着かない。
昼すぎ、サラと外に出た。
小さな橋の前に、木製の看板が立てられていた。
『宙船連絡路・一時使用停止』
工房服を着た二人の作業者が看板を固定していた。
額には汗がにじんでいる。
「……こんなこと、初めてだ」
年配の作業者が息をついた。
「神の道具は、止まらないはずなのに」
もう一人が、声を落とす。
言葉の端に、畏れと戸惑いが混ざっていた。
「調律記録を読み直した。
伝承の手順通りにやった。
何度やっても“安定値”に入らない……上がったり、下がったり、止まらない」
「ここで起きたってことは……
ほかでも、起こらないとは言い切れない。
いや、起こらないでほしいけど……」
希望と不安が、同じ言葉に同居していた。
サラは看板をじっと見て首をかしげる。
「そらふね、休みなの?」
「ちょっと、そういう日なんだよ」
年配の作業者が、いつもよりゆっくりした声で言った。
サラはそれで納得したみたいだった。
夕方、家の中が静かになった頃、母さんがそっと聞いてきた。
「アオ、眠れてる?」
「……うん」
嘘ではない。
眠れてはいる。
でも、眠りが浅い。
(夢の中で、足場がない感じ。
浮いてる場所に立たされる夢が多い)
父さんは紙を閉じて、しばらく何も言わなかった。
視線が、ぼくの手元で止まる。
「怖かったな」
それだけ言った。
短いのに、変なところに効く声だった。
喉の奥につまっている言葉がある。
でも出てくるのは短い声だけ。
「……だいじょうぶ」
父さんはそれ以上求めてこなかった。
ただ受け止めるだけだった。
夜、布団に入る。
外から虫の音が聞こえる。
三日前と同じ音なのに、聴こえ方だけが違う。
(嬉しさ、恐怖、安堵、困惑……全部が同時にある)
ひとつの感情では説明しきれない。
どれかを選ぶと嘘になる。
サラがノックもせず入ってきた。
絵の具がまだ指にある。
「アオ……寝るの?」
「うん」
布団の端にちょこんと座って、声を落とした。
「……アオ、こわかった?」
子どもの単語一つが、こんなに的確だとは思わなかった。
(こわかった、だけじゃ足りない)
でも、それを言おうとしたら、
胸の奥がきゅっと縮んだ。
なんでかは分からない。
ただ、今は言っちゃいけない気がした。
「……サラが無事で、よかった」
それだけ言った。
サラはちょっと目を丸くして、
それから笑った。
「アオがいると、なんか……ぜんぶ平気だよ」
その言葉が、胸にゆっくり沈んでいく。
(“平気”って、今の俺が一番欲しい言葉だ)
サラが部屋を出ていって、
扉の音が小さく響く。
右手が、まだ少し熱い。
(なんでこんなに暗い気持ちになるのか、わからない)
眠気はある。
ただ、夢が浅くなる予感だけは消えなかった。




