ー玖ー
「りん……。みん……、ナ」
悪魔は女の子すわりをしている。背骨が抜けたような猫背だ。
「やる気がないなら、ここであんたを見張ってろ、それくらいできるだろ、って甲斐那には言われた。わたしはなーんにも乗り気じゃない。白魔の力をもらったら、それで満足をしてしまった。食べず、飲まず、寝ることもせず。感情もなくなる。メンテナンスのいらないロボットみたい。三大欲求に縛られず、思う存分に推しの動画やアニメを観れる。都合のいいカラダ」
けほ、けほ、と月音は軽い咳をした。
ほこりが喉をくすぐったようだ。
「でも、感情を失ったから……」唾液を飲みこんで、喉を整える。「いくら好きなアニメを観ても、楽しくないの」
月音が片手に持っているウサギのぬいぐるみは、腰から下を床につけて脱力をしている。なんのために、いまもこのウサギを握っているのか、たまにわからなくなる。気分を落ちつかせるためにあるこれは、白魔になった時点で無縁のはずなのに。
「闇の魔法使いが、シキとりん、とかいう、わんことゴスロリと闘っている。安東の思念が、わたしに流れてきて、さっきからすごくうっとおしい。甲斐那の思念も濃い。あいつ、ずっと笑ってる。テレパシー強制受信機能とか不要です。ひとりになりたいから白魔になったのに、孤独感が皆無なのです……」
月音がこぼすと、鎖の音がじゃらじゃらとうるさく鳴いた。悪魔が暴れだした。いますぐにこの牢から出してくれ、と、人間だったら言葉にできるだろう。牢の内側から聞こえる声は、獣の呻きと変わらない。
「殺されるかもね。あのインテリ金持ち強いから」火に油を注ぐように、鎖の音が激しくなる。「わたしは気まぐれ。だれかの思い通りになるのがいや。裏をかいて、びっくりさせてやりたい。きらいなやつなら、なおさら」
そう言いながら月音は、ありもしない自分の心に違和感を感じた。
「ああ、そうだ……。いまはだれのこともきらいじゃないの。心がないから。金持ちのインテリはきらいだ、と人間であったころの自分なら、思ってたかもしれない。そういう意味です」
月音は椅子から立ちあがった。鉄格子のそばに近づく。暴れる悪魔の唾液が服にかかった。腰から鍵を取り出して、牢を開ける。このまま中に入って拘束具を外そうとしても、その作業中に怪我をしてしまいそうだ。暴れる悪魔には近づかないほうがいい。
「よーく、狙って」
月音は深く息を吸い、悪魔の手足をつなぐ拘束具を凝視する。
「凶響・砕壊……」口元から空気を漏らさないように、術を唱える。息を溜めて、肺を目一杯まで膨らませた。「くだけろ!」
湿った室内に月音の叫びが反響して、二回はこだました。
同時に、金属が破裂したような音も室内に響いた。悪魔をつないでいた拘束具が砕け散っている。ハンマーで叩かれたガラスのように、黒鉄が粉々になってしまった。
「われながらよくねらった。肉を傷つけないように、拘束具だけをねらった。感謝の念は、勝手にもらっておきます。あとはご自由にどうぞ、溯乃宮理子氏。こちらのひとりごとをしずかに聞いてくれたお礼、かもです」
月音の横を、よれよれの悪魔が通り過ぎてゆく。ところどころが赤黒い床を裸足で歩くたび、ぺたぺたと音が鳴る。嵐に煽られる船の上みたいに、歩き姿勢が定まらない。頭が重り玉になったみたいにふらふらする。廊下の壁のいたるところに、肩をぶつけながら進んでいる。
それでも目的は明確だった。五メートルほど廊下を歩き、奥にある階段を登って、悪魔のすがたをした理子が去ってゆく。穴の空いた黒い翼が、月音の視界のなかで遠くなる。
「だれにも縛られる必要なんかない。心は自由。どこまでも」
理子を見届けてから、目を閉じる。
すう……、と息をつく。
白い棒のような足をぎこちなく動かして、月音も地上への出口に向かう。親からは、もっとちゃんと歩きなさい、とよく言われたものだ。
階段を登りきり、地上の空気で肺を満たした。空には、黒い点がひとつ飛んでいる。後ろを振りむいて、城のような建物を見上げる。ここは、カナンの裏手だ。
「地下の湿った空気より、外のほうがいいに決まってる。わたしの家の空気も、この地下室と似たようなものだった」
白魔になってからも、胸に大きな穴が空いている。五時間ごとに、その穴に風が吹く。かなしみの風なのか、むなしさの風なのか。心を失った月音には、その判断ができずにいる。
もしいまも人間として生きていたら、心に風が吹いたときは泣き散らして、喚いて。中学生のころから繰り返していた自傷をしていた。白魔になってすぐに、腕にあった無数の傷痕は消えた。
「不安も、恐怖も、五時間ごとにおそってきた。耐えられるときは、耐えられる。でも一日のうちに何度か、耐えられないほどの動悸におそわれた。しんどすぎて、腕に傷をつくって、苦しい時間をごまかした。親はわたしに金をかけたくないから、医者の顔を見たことすらない」
ただ、懐かしい風が、
時折、胸の穴に吹くだけ。
時折、なにかを思い出すだけ。
「月のお小遣いは千円だった。不登校なんだから、遊ぶ友達もいないんだから、それで十分でしょって親は言っていた。月額六〇〇円の定額チャンネルに登録して、好きなアニメも、そうでないアニメも、食い散らかすように観ていた。それで命を繋いでいた——なんて、過去の話です」
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