晴れの日の意趣返し。
春うらら。
何処からか、そんな言葉が聞こえてきそうな朝のこと。
この日ばかりは幸四郎のぐうたらも形を潜めた。朝一番の鶏が鳴くより早く目が覚めたのである。昨夜からずっと落ち着かず、寝たのか寝ていないのかもあやふやだ。
「勝治」
寝間着姿で寝床を抜け出し、パタパタと向かったのは二つ先にある御目付役の部屋。肌寒さに肩を竦め、指先で摘んだ袖口に手を引っ込めながら、きちんと閉まっている襖の前に立つ。
「勝治、起きておくれ。勝治」
しかしうんともすんともいわない。
無理もない。
朝の早い商売人ばかりが集まった千成通りでも、どこの店も開いていないような時分である。これは流石に早起きの勝治も寝入っているんだろうと、襖にそろりと右手を伸ばす。
「幸四郎さん」
「わぁっ」
声は背後から掛かった。
飛び上がった幸四郎の肩にぱさりと着物が掛かる。濃紺のそれからは幸四郎が贈った香の匂いがした。
「おはようございます」
「……おはよう。随分と早起きだねぇ」
振り返った先には今日も朝から涼やかな面構え。幸四郎はまだ顔も洗っていない。
「えぇ、幸四郎さんも。さぁ、温かい茶を淹れましょう」
くるりと身体の向きを変えられた。さらにそっと背を押す手のひらに導かれ、部屋から引き離される。この離れで過ごすようになって五年も経つけれども、幸四郎は勝治の部屋に入ったことがない。
「おまえは本当に釣れないね」
「なんとでも」
大人しく居間へ向かいながら幸四郎は頬を膨らませる。勝治はどこ吹く風で、そんなやり取りばかりを重ねてきた。
「いよいよだよ」
「えぇ、いよいよですね」
茶を飲み、顔を洗って、向かい合って朝餉まで済ませた。
障子を開け放して見える庭の桜は満開で、小川のせせらぎのように柔らかな風に、薄紅の花びらが一片舞い込んでくる。
「ご覧よ、勝治。ちょうど満開だ」
すっかり身支度を終えた幸四郎は、桜に誘われるまま縁側に出た。
身を包むのは渋緑の絞り染め。
晴れ着にしては些か地味な色合いだが、この良き日のためにと、幸四郎自ら色と生地を選び抜いた。着付けてくれたのはもちろん勝治だ。
「桜も幸四郎さんの門出を祝っておりますよ」
ふたりにとってはいつもの縁側で、鶯の不器用な鳴き声に耳を傾けていた幸四郎は、珍しく気の利いたことを口にした男を仰ぎ見る。厳しく寄ってばかりの眉間を緩ませた勝治は、幸四郎の肩から花びらを拾い上げた。
「いやぁ、桜が似合う男だよ、本当に」
「幸四郎さんの方が、よっぽど」
にこりと微笑まれれば幸四郎もにこにこと笑う。
「主役を立ててくれているのかもしれないね」
そんな風に返して、隣の肩へと軽く身を凭れさせた。勝治はびくともしない。
再び庭へ目を向ける。
幸四郎がいる離れと庭続きになっている本邸からは、てんやわんやとした物音が絶えず響いてくる。やれ赤飯だ、酒屋はまだかと、父や兄たちの声まで聞こえてくれば、志乃屋総出の祝いであることは火を見るより明らか。
幸四郎は十八になった。
三人の兄たちは十五、六で済ませていたというのに、幸四郎に限って延ばしに延ばされてきた門出の日──元服だ。
勝治が腕に抱えている、幸四郎の真っ更な羽織りに目を落とす。黒地の背にある幸の字は、父、織兵衛が懇意にする職人の手で一針一針丹精込めて縫われたもの。まったく同じものを勝治はすでに羽織っていて、どんな上等なものより似合っている。揃いで仕立てたいと駄々を捏ねた甲斐もある。
「随分と長かったような、あっという間のような。なんとも不思議な心地です」
「私には長かったよ」
勝治のしみじみとした口振りに、幸四郎はムッと唇を尖らせる。
「なんたって私が惚れた男は石頭の頑固者なんだもの」
「……幸さん」
呼び方が変わった。
くるりと身を反転させた幸四郎は、隙なく整った勝治の袷に指先を添える。そして薄めだと自覚している唇を開いた。
「あぁ、浮かんだよ」
「詩ですか」
「うん」
勝治の視線の先には幸四郎の指がある。幸四郎はそれにしっかりと気がついた上で、男らしく出っ張った喉仏へと指の腹を這わせた。勝治の喉が微かに鳴る。
桜舞う 目出度き門出 待ち侘びて
元服の朝 縁側で乞う
景色と勝治。
これが揃えば幾らでも浮かんでくる。幸四郎にとっては幼い頃から自然なことで、詩も花も愛でない無骨な勝治も、幸四郎の言葉には耳を傾けてくれる。
「……そのお話は何篇もしたでしょう。俺はあなたと陰間遊びの真似事がしたいんじゃありません」
勝治は困り顔になり、その手で幸四郎の手を包み込む。温々とした大きな手のひらだ。
「わかっているよ。私のことがいっとう大切、歳の差もあるからって言うんだろう?耳にタコだよ、耳ダコだ」
「幸さん」
「でもね、勝治」
坊主も真っ青なほどに律儀で一本気な男を見上げ、幸四郎は目を眇めた。
「私だって、いっときの欲に目が眩んでおまえに触れたいわけじゃあないんだよ。いい加減にわかっておくれ」
「…………」
勝治が唸る。
ぱっと身を離した幸四郎は、指先で袖口を摘み、口元に添えた。眉間に皺を寄せる男をじいっと見つめる。
「……幸さん」
「うん?」
「そろそろ、本邸に出向く時分なんですがね……」
「そうだねぇ。おとっつぁんや兄さんたちも、首を長くして待っているだろうねぇ。行こうか、勝治」
「まったく、あなたという人は……」
ころころと笑えば勝治はまた唸る。今度は片手で顔を覆ってしまったけれど、きちんと結い上げられた髷のせいで真っ赤なお耳が出たまんま。
(散々焦らされたんだもの)
袖で隠した唇をにんまりと持ち上げる。幸四郎に底抜けに甘くて滅法弱いくせに、今まで何度ねだり甘えて見せても、勝治は部屋には入れてくれないし、ちょんと触れる程度の接吻しかしてくれなかった。だからこれは、生真面目な男へのほんの些細な意趣返し。
「……夜はお覚悟なさってくださいよ……」
「あぁ、おっかない」
ひょいひょいと縁側を進みつつ、幸四郎はまた笑った。
月代と髷はどうにか逃れようと、春風に掬われた己が黒髪に気を向けながら。




