↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
沈 〜お江戸の道楽息子、溺愛される〜  作者: 零壱


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/4

晴れの日の意趣返し。




 春うらら。

 何処からか、そんな言葉が聞こえてきそうな朝のこと。

 この日ばかりは幸四郎(こうしろう)のぐうたらも形《なり》を潜めた。朝一番の鶏が鳴くより早く目が覚めたのである。昨夜からずっと落ち着かず、寝たのか寝ていないのかもあやふやだ。


「勝治(かつじ)」


 寝間着姿で寝床を抜け出し、パタパタと向かったのは二つ先にある御目付役の部屋。肌寒さに肩を竦め、指先で摘んだ袖口に手を引っ込めながら、きちんと閉まっている襖の前に立つ。


「勝治、起きておくれ。勝治」


 しかしうんともすんともいわない。

 無理もない。

 朝の早い商売人ばかりが集まった千成(せんなり)通りでも、どこの店も開いていないような時分である。これは流石に早起きの勝治も寝入っているんだろうと、襖にそろりと右手を伸ばす。


「幸四郎さん」

「わぁっ」


 声は背後から掛かった。

 飛び上がった幸四郎の肩にぱさりと着物が掛かる。濃紺のそれからは幸四郎が贈った香の匂いがした。


「おはようございます」

「……おはよう。随分と早起きだねぇ」


 振り返った先には今日も朝から涼やかな面構え。幸四郎はまだ顔も洗っていない。


「えぇ、幸四郎さんも。さぁ、温かい茶を淹れましょう」


 くるりと身体の向きを変えられた。さらにそっと背を押す手のひらに導かれ、部屋から引き離される。この離れで過ごすようになって五年も経つけれども、幸四郎は勝治の部屋に入ったことがない。

 

「おまえは本当に釣れないね」

「なんとでも」


 大人しく居間へ向かいながら幸四郎は頬を膨らませる。勝治はどこ吹く風で、そんなやり取りばかりを重ねてきた。


「いよいよだよ」

「えぇ、いよいよですね」


 茶を飲み、顔を洗って、向かい合って朝餉《あさげ》まで済ませた。

 障子を開け放して見える庭の桜は満開で、小川のせせらぎのように柔らかな風に、薄紅の花びらが一片(ひとひら)舞い込んでくる。


「ご覧よ、勝治。ちょうど満開だ」


 すっかり身支度を終えた幸四郎は、桜に誘われるまま縁側に出た。

 身を包むのは渋緑の絞り染め。

 晴れ着にしては些(いささか)か地味な色合いだが、この良き日のためにと、幸四郎自ら色と生地を選び抜いた。着付けてくれたのはもちろん勝治だ。

 

「桜も幸四郎さんの門出を祝っておりますよ」


 ふたりにとってはいつもの縁側で、鶯(うぐいす)の不器用な鳴き声に耳を傾けていた幸四郎(こうしろう)は、珍しく気の利いたことを口にした男を仰ぎ見る。厳しく寄ってばかりの眉間を緩ませた勝治は、幸四郎の肩から花びらを拾い上げた。

 

「いやぁ、桜が似合う男だよ、本当に」

「幸四郎さんの方が、よっぽど」

 

 にこりと微笑まれれば幸四郎もにこにこと笑う。

 

「主役を立ててくれているのかもしれないね」

 

 そんな風に返して、隣の肩へと軽く身を凭れさせた。勝治はびくともしない。

 再び庭へ目を向ける。

 幸四郎がいる離れと庭続きになっている本邸からは、てんやわんやとした物音が絶えず響いてくる。やれ赤飯だ、酒屋はまだかと、父や兄たちの声まで聞こえてくれば、志乃(しの)屋総出の祝いであることは火を見るより明らか。

 幸四郎は十八になった。

 三人の兄たちは十五、六で済ませていたというのに、幸四郎に限って延ばしに延ばされてきた門出の日──元服だ。

 勝治が腕に抱えている、幸四郎の真っ更(まっさら)な羽織りに目を落とす。黒地の背にある幸の字は、父、織兵衛が懇意にする職人の手で一針一針丹精込めて縫われたもの。まったく同じものを勝治はすでに羽織っていて、どんな上等なものより似合っている。揃いで仕立てたいと駄々を捏ねた甲斐もある。


「随分と長かったような、あっという間のような。なんとも不思議な心地です」

「私には長かったよ」

 

 勝治のしみじみとした口振りに、幸四郎はムッと唇を尖らせる。


「なんたって私が惚れた男は石頭の頑固者なんだもの」

「……幸(こう)さん」


 呼び方が変わった。

 くるりと身を反転させた幸四郎は、隙なく整った勝治の袷《あわせ》に指先を添える。そして薄めだと自覚している唇を開いた。


「あぁ、浮かんだよ」

「詩(うた)ですか」

「うん」


 勝治の視線の先には幸四郎の指がある。幸四郎はそれにしっかりと気がついた上で、男らしく出っ張った喉仏へと指の腹を這わせた。勝治の喉が微かに鳴る。


 桜舞う 目出度き門出 待ち侘びて

 元服の朝 縁側で乞う


 景色と勝治。

 これが揃えば幾らでも浮かんでくる。幸四郎にとっては幼い頃から自然なことで、詩(うた)も花も愛でない無骨な勝治も、幸四郎の言葉には耳を傾けてくれる。


「……そのお話は何篇(なんべん)もしたでしょう。俺はあなたと陰間《かげま》遊びの真似事がしたいんじゃありません」


 勝治は困り顔になり、その手で幸四郎の手を包み込む。温々(ぬくぬく)とした大きな手のひらだ。


「わかっているよ。私のことがいっとう大切、歳の差もあるからって言うんだろう?耳にタコだよ、耳ダコだ」

「幸さん」

「でもね、勝治」


 坊主も真っ青なほどに律儀で一本気な男を見上げ、幸四郎は目を眇(すが)めた。


「私だって、いっときの欲に目が眩《くら》んでおまえに触れたいわけじゃあないんだよ。いい加減にわかっておくれ」

「…………」


 勝治が唸る。

 ぱっと身を離した幸四郎は、指先で袖口を摘み、口元に添えた。眉間に皺を寄せる男をじいっと見つめる。


「……幸さん」

「うん?」

「そろそろ、本邸に出向く時分なんですがね……」

「そうだねぇ。おとっつぁんや兄さんたちも、首を長くして待っているだろうねぇ。行こうか、勝治」

「まったく、あなたという人は……」


 ころころと笑えば勝治はまた唸る。今度は片手で顔を覆ってしまったけれど、きちんと結い上げられた髷(まげ)のせいで真っ赤なお耳が出たまんま。


(散々焦らされたんだもの)


 袖で隠した唇をにんまりと持ち上げる。幸四郎に底抜けに甘くて滅法弱いくせに、今まで何度ねだり甘えて見せても、勝治は部屋には入れてくれないし、ちょんと触れる程度の接吻(せっぷん)しかしてくれなかった。だからこれは、生真面目な男へのほんの些細(ささい)な意趣返し。


「……夜はお覚悟なさってくださいよ……」

「あぁ、おっかない」


 ひょいひょいと縁側を進みつつ、幸四郎はまた笑った。

 月代《さかやき》と髷《まげ》はどうにか逃れようと、春風に掬われた己が黒髪に気を向けながら。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。