口喧嘩未満。
「よりにもよって北国だなんて……」
月代と髷を免れ、さらりと背に流した幸四郎の黒髪。そこへ丁寧に櫛を通しながら、勝治がそんなことを呟いた。
「あれまぁ、また言ってる」
いつもの縁側で勝治が敷いた座布団に腰を下ろしていた幸四郎は、ころころと喉を揺らす。
昼を少し過ぎた庭には燦々と陽が降り注ぎ、桜の木では鶯が鳴いて、幸四郎の隣にはすっかり常連になった黒猫がいる。
「にゃぁん」
我が物顔で寛ぐ野良猫をひと撫で。それから、幸四郎は己が肩に掛けられた勝治の半纏をそっと摘んだ。胸元に引き寄せる。
お天道様が堂々と居座る真っ昼間だ。寒いわけじゃない。
もちろん襦袢姿でもない。
きっちり着物を着込んでいるけれども、この目付役は最近一層過保護だ。
縁側に置かれた盆に勝治が櫛を乗せる。かちゃと音が鳴った。
「北国っていうのはつまり、吉原ですよ、幸四郎さん」
「私だってそのくらいは知ってるよ」
「不服じゃあないんですか」
背後に腰を据えた勝治の両腕が、幸四郎の腹に回る。その手をぽんぽんと撫でてやりつつ、幸四郎は軽く背を預けた。
「なんでおまえがそう拗ねてるのさ」
「俺以外が幸さんに触るんですよ。俺以外が」
「おや、まぁ……」
これはまた、随分とわかりやすい。
幸四郎の肩に額を押し当て呻いたこの色男は、どうやらとんだ悋気持ちのようだ。
勝治の言う北国──吉原は、遊女、つまりは女を買う場所である。そういった華やかな場所で商売人たちが酒を交わすのも、息子を元服祝いに連れ出すのもそう珍しい話ではないだろうに。
羽振りの良さは商いの良さ。
お江戸は《《けち》》じゃ回らず、下手に女を知らずにいるのも始末に悪い。
やれ美人局に引っ掛かっただの、遊女に入れあげて誰それが身持ちを崩しただのと、そんな話はどこからでも聞こえてくる。父兄と勝治が幸四郎の耳をどれだけ塞いだところで、相手が隙間風じゃ防ぎようがない。
それに、と、幸四郎は勝治を横目に流し見た。
「おまえがそれを言うんだねぇ」
「…………」
ちくりと棘を刺したら勝治が黙る。
この男は、居るだけで座敷が賑わうからとアッチコッチから引き手数多の色男。本人がどう思っているかなんてことは知らないが、いくらだんまりを決め込んだところでそういう経験が勝治にあることは百も承知。反面、ずっと《《いい人》》がいなかったこともちゃんと心得ている。
(三十路の男が、まぁ健気なこと)
江戸中を探したってこんな男はふたりといない。
と、そこまで思ったところで、幸四郎の頬はぽぽぽと熱を持った。つい一昨日に交わした情を思い出し、釣られて普段とは違った勝治の顔も浮かべてしまった。
あなたとなら地獄だって極楽だ、なんて。
茹で上がった耳に吹き込まれた睦言の甘さと言ったら、千歳飴の立つ瀬もない。
「……勝治」
幸四郎の腹に添えられた、勝治の指を摘む。
「はい」
「そばにいておくれね」
「…………はい?」
勝治が訝しげな声を出した。
長く骨張った指を一本一本摘み、そっと撫でてから離す。幸四郎を散々高めて焦らした悪い指だ。次は不意をついて少しばかり噛んでやろうとほくそ笑みながら、相変わらずの顰めっ面を仰ぎ見る。
「私は女相手なんてしたことがないんだよ。知ってるだろう?」
「……それとこれで、一体どういう繋がりです?」
勝治は本気でわからないようである。幸四郎は呆れた。
「おまえがいなくちゃあ、勃つもんも勃たないじゃないか」
幸四郎を抱え込んでいる勝治の両腕にぐっと力が入る。苦しくはないが、暑い。半纏はさすがにやりすぎだ。
「こら、勝治」
「つまり」
「うん?」
ますます眉間に皺を寄せた男に遮られ、幸四郎は首を傾げる。
「床入りに付き添えと言いたいんですか?」
「うん」
「…………ずうっと見てろってぇのかい…………」
何やら盛大な呻きが聞こえたが、幸四郎は前を飛んでいる紋白蝶に目を奪われた。
「勝治、浮かんだよ」
「……ここで詩ですか……」
じっとりとした恨めしげな声も視線も、ついでに言えばうっかり漏れた江戸っ子らしい独り言すらも、幸四郎の口元を緩ませるものでしかない。むずむずとした唇を開く。
春の日に ひらひら踊り 浮き上がり
はやく暮れろと 手のひら重ね
「……北国は明後日ですよ」
勝治の右手が幸四郎の右手に重なった。
幸四郎からは指を搦め、ころころと笑う。
「そうだねぇ。おまえはそんなだから、無粋者なんて言われ──」
耳の下。
押し当てられた厚い唇に、幸四郎は言葉を呑み込んだ。
「あなたには違います。……はやく、陽が沈んだらいい」
囁きは低く、腰を震わせるほどに、甘い。
幸四郎は空いている左手で顔を覆い、息を吐くように笑った。
「これは一本取られたね……」
「俺は毎日、幸さんに何本も取られていますよ」
「…………」
顔を上げた勝治が平然とそんなことを言う。
(どこが無粋だって?)
返す言葉に詰まった幸四郎の胸の中には、どうにも釈然としないものが残った。




