8話 あなたが好き
「……ねえ、俺に何か言うことあるんじゃないの」
顔を上げれば、ジュリアンがじっと私を見つめていた。
「……久しぶり」
「それだけ?」
声は穏やかだけど、その目は私を逃すつもりはないようだ。
「避けてたわけじゃないの。ただちょっと……色々あって、忙しくて」
嘘では無い。
忙しくて彼に会う余裕がなかった。時間も、精神的にも。
「急に温室に来なくなったと思ったら、コールヴェール先生の研究室に出入りしたり、講義の間もすぐ教室を出てってどっかに隠れてるから話しかけられないし。俺、嫌われたのかと思って傷ついてたんだけど」
「……ごめん」
当然だがまだ、ジュリアンに告白の返事をしていない。
こんな状態ではとても彼の望む返事はあげられそうになかった。
「あのね、ジュリアン。よく考えたんだけど、やっぱり……私はあなたに相応しくないと思うの」
私は自分が可愛いばっかりで、先生の優しさに漬け込んで利用するような人間だ。
家族が困っていたって、もうなんの感情も動かないぐらい冷たい人にもなった。
なにより、まだジュリアンのことを心から信じられない自分がいる。
この先、私の知っている展開通りには進まないかもしれない。
けれど、だからといって今後ジュリアンがソフィアに心を寄せることがないとは言いきれない。
卒業しても、彼女に別の相手がいると知った上でそれでも追いかけ続けるほど熱量を持ってソフィアを愛する人なのだと、私は知っている。
なにより、それを言い訳に自分が傷つくのを恐れて彼を遠ざけようとした。
こんな私、ジュリアンには相応しくない。
「じゃあ……なんで今にも泣きそうな顔になってるわけ」
「別に、泣いてなんか……」
「こんなので隠してたって、俺には分かるよ」
ジュリアンが私の眼鏡をツンと指でつつく。
「来て」
そのまま私の手を引いて、階段を降りていく。
向かった先は、いつもの温室だった。
誰もいない庭園で、二人きりの空間。
これまで意識したこともなかったけれど、そう思うと途端に自分たちがいかに距離が近かったのかを思い知る。
「……俺って、そんなに頼りない?」
ジュリアンは寂しそうな顔で、ぽつりとそう言った。
「好きな人が悲しい顔をしてたら、心配になるに決まってるだろ。それなのに、あんたは俺に何も言ってくれないし誤魔化すばっかりでさ」
「それは……」
「もっと俺を頼ってよ。俺は学生だし伯爵家の次男だし、権力も金もないけど……ベアトリスのこと、他の誰よりも愛してるんだ」
切実に希うように私にそう言う。
その瞳に、私は答えを返せない。
「ジュリアン……私は……」
「もう良い。俺が聞きたいのは、綺麗な言い訳なんかじゃない」
ジュリアンは突然、私の顔に手を伸ばす。
驚く間もなく、彼は私の眼鏡を抜き取った。
何を、と言おうとしたがその口は動かなかった。
「……!」
ふわりと暖かな体温に包み込まれて、ジュリアンに抱きしめられたことに数秒経って気づく。
自分とは違うがっしりとした身体つきに、微かに香る香水の甘さ。
心音が伝わってきそうなほど密着して、慌てて彼の腕から逃れようとするもびくともしない。
「こうすれば、誰もあんたの泣き顔を見れないだろ。俺だって見えない」
「ジュリアン……」
ひしと抱きしめて離すまいとばかりのジュリアンに、抵抗するのもすっかり忘れてその体温に浸ってしまう。
(あったかい……)
こんな風に誰かに抱きしめられたのは初めてだった。
こわばっていた体がゆっくりと解れていくような感覚になる。
気が付けば、私もジュリアンの背に手を回していた。
「あのね、私……」
少しずつ、父との間の出来事をジュリアンに打ち明ける。
彼はただ、黙って私の話を聞いてくれた。
怖かった。辛かった。
これまで頑張ってきた全てを否定されたことも、家族に蔑ろにされたことも。
そして、自分自身が他人に対してここまで冷たい人間になれるということも。
前世のことは、まだ話せない。
それでも、他に話せることは全て話した。
この数日間、ずっと抱えていたものを吐き出したようなものだった。
私の流した涙で、ジュリアンの制服のシャツが濡れてしまったけれど、彼はなぜだか満足げだった。
ひとしきり泣いて、落ち着いた頃。
さすがに恥ずかしくなってきてジュリアンから離れたが、ジュリアンは私を離したくないようで結局抱き寄せられたまま。
ベンチにぴったり寄り添って座っている。
「ようやく素直になってくれた。ベアトリスってほんと、強がりだよね」
「だって、そうでもなきゃこんな人生やってられないもの」
ジュリアンの指先が私の髪を優しく梳く。
私はそれにされるがままだ。
他人に触れられるのは慣れていないのに、ジュリアンに触れられると心が穏やかに落ち着いていくようだった。
「ベアトリスはよく頑張ってる。偉いよ」
「それは……どうも」
「ベアトリスが頑張ってるその分、これからは俺が甘やかしてあげる。だから俺に、もっと甘えてよ」
まるで、私を蕩けさせるような優しい声。
それがこんなに心地良く感じられる理由は、もうとっくに理解していた。
「ねえジュリアン」
「なあに」
今はまだ、全てを委ねることはできない。
私はきっとこれからも脇役で、いつかジュリアンは主役の元へ帰ってしまうかもしれない。
でも、今だけは。
お望み通りに、ちょっとだけ甘えてみようではないか。
「私を好きって言ってくれて、ありがとう。私もあなたが好きよ」
「……っ!」
予想外にもジュリアンは頬を赤くして目を見開いていた。
あ、だめだやっぱりこれ恥ずかしい。
「や、やっぱ今のナシ……!」
「ベアトリス……! 世界一愛してる!」
「ひゃっ」
突然ジュリアンが抱きついてくるものだから、そのまま押し倒されてしまった。
至近距離で鼻先が触れ合う。
彼の瞳の中に映る私は、ずいぶん間抜けな顔をしていた。
「ふふ、かわいい」
ちゅっ、と唇が音を立てる。
「……!」
キスされた。
私がそれに気づいた時には、ジュリアンはすっかりしてやったりという顔になっていた。
触れるだけの優しいキス。
もちろん私のファーストキスだ。
あっさり奪われてしまったけれど、悪くはなかった。
甘いと感じたのは、彼の香水のせいだろうか。
(いつかジュリアンにも全てを話せるといいな)
主人公にはなれなくても、この先も彼と歩める道を切り開いていけたら————————なんて想像をしたりして。
次回2話分ジュリアン視点になります。
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