10話 手に入れたいもの(ジュリアン)
ベアトリス・デュヴァル。
成績優秀品行方正ドがつくほどのクソ真面目。
俺と目が合うと大抵「うわー最悪、コイツとはマジで関わりたくなーい」とか言ってそうな顔になる。多分彼女はこんな言葉遣いじゃないが。
「別に、泣いてないし、そんなのどうでもいいんですけど」
泣いてる、ってのはただの俺の勘違いでものすごい怪訝そうな顔で引かれてしまった。
でも俺は、なぜだかあの顔が忘れられそうもなくて、気が付けば勉強を教えて欲しいなんてわけのわからないお願いを彼女にしていた。
どうせ断られるんだろうなと思いきや、存外彼女は食いついて、学食を奢る度に勉強するようになっていた。
「こんなに柔らかいパンがこの世にあるなんて……!」
いつでも食べられるようなパンを、目を潤ませて感動しながらもぐもぐ食べる姿を見て、彼女は何となく自分が思っていたような人ではなかったことを知った。
それと同時に、眼鏡の隙間から覗く上目遣いの紫の瞳がどれだけ美しいかということも。
そうして何度も勉強会をするうちに、俺のテストの点数はすぐに上がっていった。
それでも理由をつけてはベアトリスの元に通いつめていれば、次第に彼女は敬語も使わず俺に微笑みかけてくれるようになった。
「これも、ベアトリスのおかげだよ」
「あなたがちゃんと勉強したからよ。それじゃ、次もお互い頑張りましょ」
そんなことを言われたのは初めてだった。
『リヴィエ侯爵家の血を引くものなら、出来て当然よ』
『あなたの努力の結果だなんて自惚れないで。恵まれた血筋に感謝なさい』
『この程度で満足しているのか。お前の兄は、お前と同じ歳の頃にはもっと出来が良かったぞ』
これまでは何をやっても、どんな結果を出しても、俺の頑張りはなかったことにされていた。
ベアトリスはたぶん、俺の兄のことを知らない。
知らないままでいて欲しい。一生。ずっと。永遠に。
そうすれば、ベアトリスだけは他の誰とも比較しないで俺を俺のまま見てくれる。
「あなたって、チョコレート好きよね」
「え? そうかな」
ある日のこと、いつものようにベアトリスに買ってあげたお菓子を見てぽつりと彼女がそう言った。
甘いもので気を引こうなんて幼稚なことをしているのは分かっていたが、嬉しそうな顔が見たいから続けていただけのことだったが、ベアトリスに指摘されるまで自分でも気づかなかった。
「だってあなた、いっつもチョコレートくれるじゃない。好きなんでしょ?」
俺が好きなのはチョコレートじゃなくてあんただよ。
そう思いつつ、あげたチョコレートの一欠片を渡されて黙って口に含む。
確かに、無意識的にいつも選んでいた。
他にも色々ある中でどうしてこれだけ選んだのか。
それはきっと、彼女が言うようにこれは俺の好きな食べ物だからに他ならないのだろう。
——————そうか、俺ってチョコレート好きなんだ。
十五年生きてきて、初めて知ったことだった。
彼女は、一度たりとも俺に誰かを演じることを求めてこなかった。
むしろ、うっとおしいと遠ざけたがっているぐらい。
だがその無関心さが、俺にとっては何よりも心地よく、そしてベアトリスと過ごす時間だけが、『俺』を形作っていくかのようだった。
ベアトリスといる時だけの俺は、あらかじめ決められた脚本通りに生きるのではない、『ジュリアン』としての生き方ができる。
ベアトリスといれば、ずっと、ずっと欲しかった『自分』が手に入るかもしれない。
それに気づいてから、俺はますますベアトリスの存在にのめり込むようになっていった。
けれどそれと同時に、今の段階で彼女にとって俺はあまり重要な存在ではないのだとはわかっていた。
俺と過ごした時間も、彼女の日記には——————彼女に日記をつける習慣があるかは知らないが——————恐らく俺の項目はあっさり2行で終わる。
きっと俺と過した時間より、今日の講義の内容の方がよく覚えていることだろう。
俺と過ごした時間のほとんども、彼女にとっては特筆すべきではない事項に分類されてしまう。
このままでは、いつか他の誰かに彼女を奪われてしまう。
まるで、ベアトリスが俺だけの存在になったかのように錯覚しては、ベアトリスの心を繋ぎ止めようと必死だった。
わざとソフィアをけしかけて、ベアトリスの嫉妬心を誘おうとしたぐらい。
それでも彼女は、俺がベアトリスに夢中であることを察するどころか、ソフィアに嫉妬させたいがために近づいてきたなんてとんでもない誤解までしてくれた。
あまりにも腹が立ったから素直に告白したら、今度は俺を避けるどころか知らない間に教師の助手になって研究室に出入りするようになって、ますます俺との距離が遠ざかっていった。
でも俺は、あいつを手放すつもりは一切ない。
逃げるのなら、捕まえるまで。
そうして、俺は努力の末ベアトリスを勝ち取った。
彼女の心を溶かして、その艶やかで小さな唇を奪った瞬間、俺の心はこれ以上ないほどに満たされていた。
唯一気に入らないのはあのお節介な教師のところにベアトリスが出入りしていることだろうか。
彼女にとって、やはり俺はまだ壁を作らざるを得ない人間らしい。
ベアトリスが頼るべきは、あんなベアトリスのことなんか何にも分かってない赤の他人の教師なんかじゃなくて、俺だけだっていつか分かる日が来るだろう。
俺の世界はベアトリスだけでいいし、ベアトリスの世界も俺だけであって欲しい。
その瞳を乱して、一生俺だけにしか映せないようにしたい。
鈴の音のような可愛らしい声が呼べるのは、俺の名前だけにしてしまいたい。
俺がそんなことを常日頃考えているなんて、ベアトリスは何も知らないだろう。
そうして、何も知らないまま愛らしく微笑んでくれればいい。
次回からベアトリス視点に戻ります。




